躾が苦手な人
2019年02月25日
親が躾と称して子どもを虐待し時には死にまで追いやる事件の報道が後を絶たない。親は言う、躾のつもりだった。わたしも児童養護施設でいくつも事例を見てきたが、ほぼ100%の虐待親が抗弁に使う言葉だ。逆に言うと子どもへ暴力の錦の御旗に利用されているのがこの言葉。それで、基本的な方向は間違っていなかったがやり過ぎてしまった、と一段か数段自分を許す。実は自分自身の鬱憤を吐き出しているだけだなんて自分でも思わない。ただなんにせよ、自分の躾のやり方が間違っていたことは認めざるを得ない。
虐待するような児童養護施設にいる子どもたちの親に共通する点がいくつかあって、そのひとつに自分に甘くて他人に厳しいという性向がある。自分は悪くない他人が悪かったと考える。本当は子どもの躾じゃなくて自分の躾をした方が良いという人間ばかりなんだけど、自分は立派だと思っているから始末が悪い。
よくそんな偉そうな事を言えるなという事を反論できない子どもに向かって平気で言う。相手は弱い子どもだから通用してしまう。多少なりとも自分を冷静に見る目があれば、子どもが仮に間違ったことをしても、その原因は自分にもあることに気づくはずだが、そこが抜けて一方的に子どもが悪いとなる。自分は反省しない。
ここまで読んで、ああ、自分にも当てはまる傾向があるな、気をつけようと思う人間はまともである。虐待するような親がこの文章を読んでも自分のことだと思わない。そういう親が多いことは知っているけど自分は違うと考える。十分冷静で客観的なつもりなんである。
そういう親は結局自分の気分のままに子どもを叱る。自分に甘いから過去の発言との整合性とか、自分の行動との整合性もよく考えない。罰を与える前に慎重なステップがあるべきだがいきなりステーキどころじゃなくていきなり罰というケースも多い。そんなこと当たり前だろうって親は思っても子どもはわからない、わからないと罰の記憶だけが鮮明に残りそれがまた悪さをする。隠そうとしたりさらに手口を巧妙にしたり。罰を避けたいという気持ちだけが残るからである。
子どもの将来に親として一番影響が大きいのは、その親がどういう人間かである。親がまともなら子どもは大抵まともになる。もちろん世間的には一見まともでも家では本性を現すということが多いから油断はできない。だが仮に世間で、この人他人に厳しくて自分に甘いな、とか他人のせいにするな、とかいう人間は家庭での子育ても相当怪しいと思ってもそんな外れはない。世間ではおかしくて家でだけまともという人間はそんないない。
とまあいろいろ書いてきたけど、当たり前だけどここまで読んでもおかしな人間は自分のことだと思わない。むかし働いていた会社に暴君のような本部長がいた。その本部長の口癖が、『暴君』であった。自分の部下の部長とか課長の振る舞いを指して、あいつは暴君だというのである。よく言うよであるけど、自分は違うと思っているからどうにもならない。反論する人間は葬り去る。当然である。正しい自分に反論する人間は間違っているに決まっている。あの本部長にも子どもがいたはずだが、どんな大人になっているんだろう? でもきっと一見まともだな。その本部長も外面はやたら良かったから。
虐待するような児童養護施設にいる子どもたちの親に共通する点がいくつかあって、そのひとつに自分に甘くて他人に厳しいという性向がある。自分は悪くない他人が悪かったと考える。本当は子どもの躾じゃなくて自分の躾をした方が良いという人間ばかりなんだけど、自分は立派だと思っているから始末が悪い。
よくそんな偉そうな事を言えるなという事を反論できない子どもに向かって平気で言う。相手は弱い子どもだから通用してしまう。多少なりとも自分を冷静に見る目があれば、子どもが仮に間違ったことをしても、その原因は自分にもあることに気づくはずだが、そこが抜けて一方的に子どもが悪いとなる。自分は反省しない。
ここまで読んで、ああ、自分にも当てはまる傾向があるな、気をつけようと思う人間はまともである。虐待するような親がこの文章を読んでも自分のことだと思わない。そういう親が多いことは知っているけど自分は違うと考える。十分冷静で客観的なつもりなんである。
そういう親は結局自分の気分のままに子どもを叱る。自分に甘いから過去の発言との整合性とか、自分の行動との整合性もよく考えない。罰を与える前に慎重なステップがあるべきだがいきなりステーキどころじゃなくていきなり罰というケースも多い。そんなこと当たり前だろうって親は思っても子どもはわからない、わからないと罰の記憶だけが鮮明に残りそれがまた悪さをする。隠そうとしたりさらに手口を巧妙にしたり。罰を避けたいという気持ちだけが残るからである。
子どもの将来に親として一番影響が大きいのは、その親がどういう人間かである。親がまともなら子どもは大抵まともになる。もちろん世間的には一見まともでも家では本性を現すということが多いから油断はできない。だが仮に世間で、この人他人に厳しくて自分に甘いな、とか他人のせいにするな、とかいう人間は家庭での子育ても相当怪しいと思ってもそんな外れはない。世間ではおかしくて家でだけまともという人間はそんないない。
とまあいろいろ書いてきたけど、当たり前だけどここまで読んでもおかしな人間は自分のことだと思わない。むかし働いていた会社に暴君のような本部長がいた。その本部長の口癖が、『暴君』であった。自分の部下の部長とか課長の振る舞いを指して、あいつは暴君だというのである。よく言うよであるけど、自分は違うと思っているからどうにもならない。反論する人間は葬り去る。当然である。正しい自分に反論する人間は間違っているに決まっている。あの本部長にも子どもがいたはずだが、どんな大人になっているんだろう? でもきっと一見まともだな。その本部長も外面はやたら良かったから。
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