言葉が軽い時代
2019年01月07日
昨日の続きでもあるんだけど、感謝とかありがとうとか、はたまた愛しているとか「どんなに何か思っていてもそれを言葉にして相手に伝えないと意味がありません。」みたいな人生のノウハウ本はいくらでもあって、これは現代では当たり前のような話になっている。最近でそれはおかしいて言う人はまず見かけない。
だからわたしが手を挙げるんだけど、それで思うにどうやら古き日本人はそうではなかったんじゃないか? 江戸時代とか明治時代とかいやそれよりもっと遡った時代に生きた日本人はコミュニケーション能力が現代の人より低かったのか? これは比較を定量的にしようとは思わないけど、それこそテレビの時代劇をみても歴史小説を読んでもむしろ現代より情感は豊かではあったのではないか?となんとなくそう思える。
つまり言葉ですっと表現する代わりにありとあらゆる手段を使って、そしてそれは主には行動になるんだろうけど、何かを伝えるという努力はやはり全力をあげてきっとなされていた。一方受け取るほうも、言葉になっていなくても、あるいは限られた言葉からでも、そこから「感じる」という能力が現代人よりもずっと高くてやはり全力をあげて感じていた、そういう時代もきっとあった。なにせ古の日本人は遠回しな歌をしたためて気持ちを伝えていたらしい。(たぶんそれでも当時は勇気ある直接的アプローチ)
それが言葉で直接表現することが主という時代になってくると、それは言葉は便利ですから、その方が伝わりやすい。聞く方もそれは感じるより聞いた方が楽だから、それは良いことばかりだと思うのは、ちと違うとわたしは思う。きっと代わりに我々は何かを失いつつある。言うなら言葉の中身です。本来伝えるべき中身が、あまりに便利な道具のためにスカスカに軽くなっていっているのではないか? そして受け取る方も感受性はだいぶ鈍くなっているのではないか。そんな気がする。
現代人は冷たいとか鈍いとか無機質だとかそんな議論をここでしているのではない。わたしが興味深く注目するのは、その感謝という言葉の目盛りがぐっと下がってしまって、さほどのことでもないのに「謝」が多用される。もちろん重くも使われる。感謝をいう気持ちにも1から5くらいあったとして、その1から5を表現する日本語が実用的にあまりないのである。したがってなんでも感謝、ありがとうですんでしまう。古くは日本人はそこを言葉で表現してこなかったからである。これが面白いのは、喜ぶ気持ちを表現する言葉は調べるとたくさん出てくる。欣とか悦とか慶とか賀とか、はたまた愉とか、そこから表現が多様に組み合わされる。
それでも、言わないよりは言ったほうがいいだろうという反応は聞こえてきそうだが、その言う中身とはいったい1から5のどこなのか?そして4とか5なら言っておしまいではそれはないだろう。だったら軽くいうなというのがわたしの前の記事でもある。
でも面白いなては思うのは、気持ちを行動で表現するとなると、実は知恵と行動力が高いと感謝の気持ちが高いと勝手になってしまう側面がある。わたしの親がどっちもあかんたれで離婚してわたしが児童養護施設にいた話はこのブログの読者ならご存知だろうと思うが、わたしが親父の看病のために6年300回毎週東京と静岡を往復したとか、あるいは震災の直後に単身気仙沼に乗り込んで実母と伯母を救出したり、その後現在にいたるまでの顛末も、それは親に対する感謝の気持ちがあるからだとか、やはり親子だからとか、そういう美談に収めやすいのね。でもわかる人はわかると思うけど私の行動規範はそこにない。たぶんわたしが感謝していたらもっと凄いことになるんだけど。
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