正しいよりも格好いいが好き

2021年04月24日
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人生の考え方
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あらま数日で那須は緑が急に色づいてきました

ネットで日銀の悪口を言う個人投資家って最近ずいぶんと目につきます。日銀が株を買い支えるのが当たり前だと思ってんでしょうか。その他株価に影響を与える政府高官の発言とかの悪口を言う人も多いです。悪口言う人の中には自分は正しいことを言っているだけだって思っている人もいるみたいです。ただ他人はどう見ますかね?どんな理屈をつけたところで、その悪口の動機は自分の損得から出てきてるだろうって誰だって思いませんか? 

正しい正しくないじゃなくてポイントはそこなんです。もしも本当に正しいことで、そしてその人が賢明なら、愚かな悪口に埋没して人から見分けがつかないような物言いはしないとわたしは思うのです。逆に言うとどんなに公平そうに理論建てしても、人間というのは結局は自己の利害の影響を色濃く受けて自説の正当化を図る生き物だと言えやしないか? だって何も言わないという選択もあるわけです。正しいと思うことを全部言わなきゃいけないわけではない。にも関わらずにわざわざ個人投資家が日銀の悪口を書く動機に、たとえ言っていることが正しくても自分の利害で物を言っていると言えませんかとわたしは思うのです。

ネットでは相手の素性が見えないだけに、書いてること言っていることが正しい正しくないの視点に重きを置く傾向があるとわたしは感じています。正しいなら何を言ってもいいのでしょうか? 自分のよこしまな動機をむしろ正論で覆い隠す人間がいるのであれば、言ってることが正しければ正しいほど、逆にその意図を勘ぐりたくなり、その動機にどうにも得心が得られない以上は、その主張もそれなりの説得力しか持ち得ないとわたしは思うのです。

もっと簡単な話をしましょう。オリンピックの開催か中止かって議論があります。スポーツイベントの開催についての議論も多いです。わたしがここでゴルフトーナメントは開催すべきだって主張するとしましょう。誰だってハルトモ はゴルフが好きだから、そう言ってんだろうって思いますよね。その後どんな立派な理論を並べても、あまり説得力はないってことです。オリンピックだって期待する人期待しない人、温度差は人それぞれです。いくら自分がフェアな視点で物を言っていると自分で思っていても、その温度差までは共有できているかどうか疑問なわけです。それだけに主張のもっともらしさがむしろ滑稽に映ることもある。

わたしはお天道様が見ているとか、書きます。自分の美意識とか価値観とか、あるいは格好いい悪い、とかも書きます。それで正しいことというのをそれほど重要視していません。読者は正しいことを知りたくてこのブログを読むのではないのです。そんなものはそれこそ専門家がいくらでも書いている。ハルトモ の珍妙な言い分を聞いてやろうという寛容なる読者にこのブログは支えられているのです。ただ正しいを通り越して、格好いいになった時に、そこではじめて文章はその人のものになる。格好いいのか悪いのかはまさに属人的なものです。理論は1人歩きしますけど、格好いいはその人を離れて歩きようがない。だから正しいよりも格好いいに重きを置いて生きるのだとわたしはそういう考えなんです。

わたしの場合、格好いいは、正しさもそしてしばしば損得をも上回る判断基準です。それで不思議なことにけっこう儲かり、なんでもうまくいくから人生痛快極まりない。世間の損得に敏感な良い子の方々に、カッカッカ謹んでざまあみろと申し上げたい気分であります。正しいよりも格好いいが好き、いかがですか?貴殿も。いつでも手遅れてことはないと思います。

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