あさがきたとマズロー

2015年11月10日
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人生の考え方
今やっている朝の連続ドラマ、あさがきたというのは明治初期の大金持ちの家の娘の話である。女ながらやんちゃでチャレンジングで商才もあるので自らビジネスの世界に繰り出す。女ながらの偏見はあるにせよ、持ち前の明るさで乗り越えてさまざまな成功を手にしていく。とまあそんな仕立てのドラマだが、大金持ちだから酔狂で特に許されただけだなと私など観ていて思う。当時の上流階級ではそういう女性が珍しかったということだろう。実は彼女よりもっとたくましくそして実力もある時代と戦う女性というのはその時代やまほどいて様々な葛藤を繰り返していたはずだ。だが
そのほとんどは挫折して歴史に名を残すのはわずか、そのわずかもこうして紐解けば実力よりむしろ育ちが良いからこそと理由付けができるというのもなにやらチョウザメ、もとい興ざめである。彼女なりにきっと頑張ったんだろうけどね、育ちが良いばかりに成功に比して賞賛は決して大きくないとしたらきっと不本意じゃないかしら。逆に徒手空拳で戦い夢破れても戦いきったという満足感が本人にあれば別に賞賛は必要ないのかもしれない。

マズローの五段階欲求というのがあって、その一番上は自己実現。マズローは後に五段階の上にもう一段あると言ったそうだがその6段目をも含めてわたしはちと違うんじゃないかなって漠と思う。別に自己実現なんかしなくてもいいじゃないか? そもそもなにかを成し遂げるとか結果を出すことで得られる満足感がそれほど上質とは思えない。あさがきたの話にもどれば多くの時代に埋もれていった多くの女性と成功したあさとでなにが違うのか?  そして自分の人生にどれだけ納得が行っているか? そう考えて行くと、なにがどうでもいような気がしてくる。

人生どれだけうまく行ったとしても、最後墓場に持っていけるのは自分の納得と思い出だけである。逆に後悔を墓場に持って行く人はけっこう多いそうだが、それを避けるためには生きているうちから両手を納得でいっぱいにしておくことだ。そうすれば後悔をかかえるこむ隙もない。生きているうちに後悔をたくさん抱えておれば、いつ死ぬか知らんがそのまま持っていくことになる。後悔してまで達成するべき自己実現も社会的欲求もありはしないとわたしは思う。




今朝の朝食、今日はさばの西京焼きがメインだ。マズローによると食事をいただけるのは五段階の最低の生理的欲求に属するものらしい。いやいや家族の愛情を感じるからそれは愛の欲求だと言われたとしたらそれはそうかもしれないが、だとしたら別に質素な朝食でもよくないかね? わたしはこんな華やかな朝食を食べていて嬉しいのだ。朝から気分が良い。今日は休みである。休みだが会議で二時間だけ出勤する。会議になど出たくないが仕方ない。マズローの帰属の欲求でも満たしに行ってくるか? 


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