これはわたしの上司のイワちゃんの言葉だけど、わたしは今まで4人を看取ってきた経験から得心している。呆けると言ってもその人の人生がなんらかのかたちで現れていると感じる。まったく別人格がどこからか降臨してくるわけではない。イワちゃんが言うには、ボケたりして問題行動を起こす老人は、自分を大切にしろと言っているんだということであった。その言い分がもっともかどうかは別として確かに、それまでの人生となんらかの繋がりというのはあると思う。
わたしは親父のことをここで何度か書いているけど、子どものわたしを虐待する酷い親であった。わたしが児童養護施設から戻るとしげちゃんの紐で、遊んで暮らしていてどう考えてもお世話になった気がしない。わたしが就職するともうほとんどつきあいはなくなった。だが親父は死ぬ時もあっさりとはいかなかった。余命半年の宣告を受けて6年生きた。放って置くわけにはいかないので、結局わたしは東京で働きながら6年間毎週毎週静岡に帰って浜松の病院への往復をした。300回である。6年間どこにも遊びに行かなかった。会社からの転勤条件の昇進話も断った。結果昇進昇給も遅れた。
なんにせよ、最後まで身勝手な親だったけど、これをわたしは修行だと思った。自分が徳を積んでいると思った。身勝手な親ではあるけど、確かに最後に親の面倒を十分見れたことはわたしの人生でプラスになったと今は思っている。ひょっとして株の儲けだって、幸せな家庭だって、そういう巡り合わせの中にあるような気がする。
認知症の話に戻ると、これは介護するほうも修行だと思う。自分が徳を積むチャンスだと思うしかない。どうせやるなら前向きに考えたほうがいい。しげちゃんもしみちゃんも施設に入っていたけど、わたしとカミさんで週に3ー4日は会いに行っていた。外に連れ出して花見したりお茶したり。施設の人に聞くと週に4回くる家族は飛び抜けて多いほうで、多くても週1ということであった。平均は月に1−2回。全然家族がこない人もたくさんいた。これでは親を大切にしているとは言えない。たぶん実の親で少なくともそれなりにお世話になったんだったら、毎日来てもいいんじゃないかしら。他人のしげちゃんをそれだけ会いにくるわたしのような人間もいるんだし。
たくさん面会に来る家族は変化にも気付くので、施設の人もそれなりに気をかけるようになる。いい加減なことをすればクレームがつくと思うのかもしれない。まあそこまで思わなくても、全然面会に来ない人へのケアはそれなりのものになりやすい。結果症状が悪化して認知がさらに進んだり、問題行動を起こす人というのが多いとこれは施設の人から聞いた。少なくとも自分が大切にされていると感じないと物事は良い方向に進まない。施設に入る前の人生もきっとボケ方に無関係ではないとわたしは思う、というかそう思ったほうが良いと思う。
わたしは4人看取ったけど、まだあと二人残っている。かみさんのお母さんはそばに住んでいるし、まったく問題ない。気仙沼に住むわたしの母親はどうなるかわからない。わたしが4歳の時に家を出ていってから、まったく付き合いがなかったが、震災をきっかけに再会した。いきがかりで母とその姉をさいたまに連れ帰ったけど、母親は姉のしみちゃんを放り出して気仙沼に帰る。結果しみちゃんの面倒をわたしが3年面倒見てそれから弔いまでわたしが全部やった。わたしの母親は親父以上に身勝手な人間であったが、それを知るのも人生だ。
わたしの母親は実の姉の葬式にも来なかった。母親は身よりがないので、結局またわたしに連絡してきて復興住宅入居の保証人になってくれと言うので、保証人になって、それで年に2回くらいは様子を見に行っている。今後どうなるかわからないけど、できることをするしかない。それがわたしの巡り合わせである。
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