以下はあくまでもわたしの経験であり、誰にもあてはまることでもないかと思います。ご自身のケースについてはよく医療関係者、ケア関係者にご相談され、かつご自身でよくお考えになったらよいと思います。わたしは自分なりに考えて行動しました。プロのいいなりになることはないと思います。自分の親なら自分が一番よくわかっているはずですから、参考にしながらも自分なりのスタイルがあって当然だと思います。
わたしくらいの世代になると、親の介護は深刻な関心事で、その中で認知症というキーワードなくして介護は語れない。わたし自身はしみちゃんとしげちゃんと二人の重度の認知症患者を看取った。最後は頭の中はすっからかんだったけど、最後までハルちゃんハルちゃんとわたしを慕ってくれた。ふたりともわたしのことが大好きだった。ハルちゃんと言えないならハルちゃんだよと自然に伝えればいいのだ。よくわたしは誰でしょうとか?確認したがる人間がいるけど、そんなこと聞かないほうがいい。答えを言えるなら馬鹿にされていると思うだろうし、言えない時に恥をかかすことになる。認知症患者であろうがなかろうが、人生の先輩である年寄りを試したり恥をかかせてはいけないとわたしは思う。
しげちゃんは認知症になって、不安定な時期が続いた。でも自分は守られているんだ、なんの心配もないんだ、ということが伝わることで次第に気持ちが穏やかになっていった。離れているところで本人に聞こえないだろうと思っていろいろ話すと、その表情をネガティブに解釈して悪口を言っていると疑うのが認知症である。わたしが現れるといつも朗らかで、誰と話していても悠然としてなんの心配もないように見える。それを見て年寄りは安心したんだと思う。
それとこれはとても大切なことだけど、認知症の年寄りは死ぬことそのものが怖いんじゃなくて、自分がどうなっていくかわからないから心配なんである。それは死んだ後を含めてである。わたしはしげちゃんには死んだ後の話をたくさんした。毎週施設に見舞いにいくんだけど、必ず、お墓参りに行ってきたよ、から会話を始めた。認知症だから前の話なんて覚えていない。それでこんなきれいなお墓だから、いつしげちゃんが入っても大丈夫だからね、と言うと、そうかね、うれしいねえと屈託なく笑う。でもそんな慌ててこなくてもいいよって、エイイチは言ってたよと続ける。エイイチというのはとっくに死んだしげちゃんの連れ添いでわたしの親父だ。しげちゃんは、そうだね。おとなしく待ってなと言っておいてとやはり笑って答える。
お寺にも挨拶にいったよと言う。住職さんはしげちゃんのことよく覚えていて、お迎えがきたらすぐに駆けつけてお経をあげてくれるんだよ。さいたままで清水から来るんだよ。それを聞くとそうかね、忙しいのに悪いねえ、なんて言う。大丈夫だ、それが仕事だ、なんてわたしが言うとまた笑う。こんな調子で知らない人が聞いていると縁起でもないと思う人もいるようだったけど、少なくともわたしとしげちゃんの間では明るく真剣に未来について語っていたわけで、できもしないのにしっかりしてねなどと暗い現実を語るよりはるかに前向きで、とても楽しい時間だったと思う。実際すごく喜んでいた。
しっかりしてとか、頑張ってねとか、そんなことわたしは決して言わなかった。なんの心配もなくボケていいからねといつも言っていた。全部ハルちゃんが面倒見るからね。ここでいつまでも好きなだけ生きていいからね。そんでいざお迎えが来たら、葬式から墓まいりから法事まで、ばっちしやるから、安心して死んでいいよと、これも冗談みたいに話した。本人は、そうかい、それは楽しみだねえ。なんて笑ってこたえてくれた。
最後しげちゃんはわたしに看取られて自然死で逝った。自然死でその瞬間を看取ってもらえるのはかなり幸せだと思う。そしてしげちゃんの葬式は約束通りそれは立派にやらせていただいた。弔問客はほとんどいないけど、しげちゃんはとても喜んでくれた。だって枕元にありがとうって笑顔で挨拶にきたからね。結局その人が喜ぶようにしてあげればいんだと思います。それがちゃんとわかるかですね。
- 関連記事
-