真実を語らぬ者は悪か?
2015年03月16日
先月から見放題のHULUを契約しているので、わざわざ金を払って観るまでの気もしないという映画も気軽に観ることができる。観出してつまらないと思えば止めればいいし、聞いたことない映画で掘り出し物に出くわすこともある。
セントオブウーマンという題名の映画。この映画でアルパチーノはアカデミー主演男優賞を獲得した。知られた映画でわたしは題名とおおよその話は知っていた。なんとなく見ていなかったのだが、HULUのおかげで観ることになった。
大統領も二人出しているようなボストンの名門ハイスクールに通う18歳の少年、エスタブリッシュの子弟が在籍するハイスクールだが、彼はオレゴンの貧乏な家の出で奨学金で通っている。
裕福な家の子供たちとも普通につきあってはいるが、棲む世界が違うとは感じていたその彼だが、偶然同級生がしかけた校長への悪戯を目撃する。彼が目撃者ということはすぐにわかり校長に呼び出される。校長は悪戯に腹を立てていてなんとしても犯人を挙げたい。高圧的に聞き出そうとする校長に対して彼は犯人の名前を言わない。親しくもない同級生だが、だからと言って悪戯程度で告げ口はしたくなかった。そこで校長は甘い話をちらつかせる、ハーバード大学への推薦入学である。そしてその一方で、真実を語らない者は本校に置いておくわけにはいかない、と退学を示唆する。ハーバードかまたは退学か?
まだアルパチーノは出てこない。これから登場する。ここからどうなるか?、それを知りたい人はレンタルでもして映画をみれば良い。まあアルパチーノの演技は確かに迫力があった。ただ映画としてはいくつかストーリーに違和感を感じる点がわたしにはあって見る価値ないとまでは言わないが秀作とは言い難い。
それにしても、その高校生に突きつけられた命題がなかなか興味深い。わたしは長年サラリーマンをやってきてたくさん嘘をついてきた。わたしが得意とする嘘というものがある。聞いてもどうにもできない人間は真実を聞かないほうが良いという嘘だ。
わたしは社長決済であるべき億円単位の設備投資案件に事実ををわざとすべて報告せずに何度も独断で進めたが、上司に相談していれば、到底決断などできずに止めるしかなかったプロジェクトはいくつもあった。そんな腹の据わった上司はサラリーマン社会にはいなかった。わたしは成功する確信があって、またわたしは天才的に判断を間違えない人間であるという自覚もあった。だから胆力なら抜群のわたしが黙って決断してあげたのだ。もちろん越権行為である。問題とされれば免職は免れない。別に構わん。そうなればそれまでのこと、そこでわたしのサラリーマンとしての武運は終わる。それだけのことである。
でも長年の盟友とかいうか、上司のいわちゃんも日本法人社長のたけちゃんも、わたしが独断で進めていることはわかっていた。すでに十分な権力を持ったわたしだったからもし失敗すればわたしに責任を負わせれば良いのだ。うまくいけばハルトモに乗ってしまえば良い。
もし彼らに相談すればながながと評定が始まり、そして米国本社への社長にまであがる。そして米国本社の社長と言えど決断できない。時間をさんざんかけてそうなるとわたしは見切っていた。そもそもそんなのんびりしていたら機を失うのだ。わたしはそれが我慢ならなかった。別に手柄を上げたいという気でない。十分偉くなっていたので手柄など必要なく、むしろおべっかを上手にしていたら上に行くレールには乗っていたのだ。だがそういうことはしたくなかったということだ。
この映画の高校生も、別に親しくもない同級生を守りたいとも思わない。だがそれを権力者の圧力に屈して、ぺらぺらしゃべるそういう自分が嫌であった。同じく甘い話にホイホイと乗る自分はどうであろうか? これは映画を見たら良いが、ハルトモ君はそれさえよしとしない人間であった。そんなことして昇進したいなどとはハルトモは決して思わないのだ。
このブログに書いてある通り、わたしは随分勝手な児童養護施設の職員である。その自覚はあるし、同時に他の職員とは全く違う次元にいる職員であるという自覚もある。わたしと同じようにできる職員などいない。経験から能力から考え方からまったく異次元。わたしが子供のことでいちいち相談をすれば、NOという答えしか返って来ないか、またはなんの決断もできない組織というかそういう人たちであれば、わたしは自分でできることを自分で決断すれば良いのだ。わたしの美意識は、できることがなされずに子供達の未来が蹂躙されるのを看過することを許さない。
それでおかしなことにならないという確信がわたしにはある。わたしは自分を利するための嘘はつかない。そもそもこの職場で己を利する意味などない。ただただ子供達によくしてあげたい、真っ当な倫理観さえ持っていれば、それでそんなおかしなことには絶対ならないのだ。いやなるかもしれない。いずれはどこかでどうにかなるだろう。そうなったらそこでわたしの児童養護施設の職員としての生活は終わる。それだけのことである。そうやって毎日毎日、自分のベストを積み上げていく。終わる時まで。終わればまたなにか始まる。生きてさえおれば。いや死さえ新しい始まりであるという予感さえわたしにはある。少なくとも当分時間が止まる予定はないだろうから。
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