一見エビラーメンですが
食べると消えます
これが般若心経による「食う」の極意、もとい「空」の極意
般若心経についてはこのブログでも何度か書いていますが、今日は般若心経の教えという説教的な話でなくわたしが実生活でどう生かしてきたかって話を具体的にしたいと思います。般若心経262文字の中でもっとも重要な言葉は「空」だと思います。だれでも「色即是空」「空即是色」って言葉は知っているでしょう。その「空」ってのはまずなんだってことです。例えば会社であなたは上司であるAさんから酷いことを会議の席上で言われて深く傷ついたとしましまょう。一般的に仏教の教えでは、こだわりや執着を捨てなさいって言いますけど、酷いこと言われてそんな境地に達せません。それは当たり前のことです。「自分が酷いことを言われて傷ついた」というのはあなたにとって間違いなく起こった事実のわけです。それはどうでもいいとはいかない。そこで考えるのです。Aさんはどう思ってんのかな?ってこれは言われて怒ったり傷つく前に事実を整理するってことです。少なくともAさんはどう認識しているか?を整理する。酷いことなど言っていないと思っているのか、あるいはある程度きついことをいったけど十分許容範囲だと思っているのか、いやきついこといわれたあなたに理由があると思っているか?まずはここまで。でもここまで誰でもやるんです。まだ先がある。
じゃあ会議の席上でAさんの発言を聞いていた他の人、仮に5人いたとすると彼ら彼女らはどう思ってんでしょう? そこでまた一人一人考えるのです。自分にはあわせて調子良く返事はしてくれるかもしれませんけど、あなたが100%とするとその人は何%同意してますか?って考えてください。同じって人は滅多にいないです。高くても70%とかあるいは50%とかがいいところかもしれません。そうやって考えて5人全員を一応観察評価する。そうするとどうですか? 自分とAさんとあとの5人の位置付けがマップに描けるじゃないですか? ひょっとしたらかなり自分に分が悪いかもしれない。さてそこでどうするかです。ここで無理に自分を納得させる必要はないです。自分は納得してないんだから。じゃあ今後どうやって振る舞えば多くの人を味方に引き寄せることができるか?そこで知恵を絞るのです。もちろんAさん対策も考えます。本当に怒っている理由は何か?とか。なにせ考えてその行動を取る。そこでまた見直す。試行錯誤です。こういうことを精神作業として繰り返していくと、最初Aさんに言われたことを瞬間的にひどいことだと感じた自分はいなくなっていきます。まるで裁判官ならどう判断するだろうという視点が備わってくる。以前に酷いと思っていたほどには酷さを感じない。他者の視点が入ったからです。
つまり酷いことを言われたと感じた自分は確かにいたが、今は変わっている。Aさんや他の出席者の見方も最初からあなたとは同じではない。そしてそれぞれもまた状況次第で変化をしていく。つまりこれだと自分で思ってもそれはいろんな見方があると同時に変化している。ましくそれが「空」だってことです。じゃあとどうせ変わって動いていくものだから自分で凝り固まって執着心する意味はないと、そこまで思わなくてもいいのです。なにやらぼやんと冷静な心持ちで見られるようになるだけで、たぶんそれが仏教で言うこだわりを捨てて執着しないという意味です。執着を捨てろと言われると100をゼロにしなきゃいけない。わたしの理解は100をまず80に落とせば十分なんです。それでだんだんと落としていくのです。そういう経験を何度も何度も繰り返していくうちに、最初から何か言われたくらいではカッカとしない自分が出来上がってくる。いちいち他人のことを観察しなくても、自分の中に客観的な自分を持てるようになる。こうなってくるとしめたものです。つまり今この時においてのだいたいの落とし所というか世間のコンセンサス的なポジションにすっと立てるようになる。その上でこれは本当に酷いことだと思えばまた知恵を絞って行動することです。無理に自分を仏教の教えで納得させる必要はない。わたしはこう考えて生きてきました。
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