「私の自由人への道 5」閑話休題、そもそも自由人てなんなの?

2023年08月01日
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私の自由人への道
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「私の自由人への道4」まで書きました。ここまでお読みいただいてよくおわかりいただけると思いますが、自分でこれぞ自由人というイメージを固めて走ってきたわけでもなんでもない若きわたしだったわけです。徒手空拳に近い。これは児童養護施設に入ったり親戚を盥回しにされたり、大人に振り回された生い立ちからくるものだとも思いますが、誰かに自分の生き方を翻弄されたくないとやかく言われたくないという気分が強くありました。大人の事情が大嫌いって感じ。そこからこのままでは終わらんぞ、のし上がってやろうとなった。だから出発点としては精神的な解放が先で、金持ちになってなんでも好きなものを買って食べてという意識はそんなに高くなかったと思います。ただお金に不自由するようじゃ、他人様から干渉されやすいしのし上がったとはいえないからそれなりには欲しかったけど、もともとは裕福なボンボンの生まれなんです。わたしが後年それほどお金儲けに執着しなくなったのはこの精神のあり方がわたしにとっては一番大切だったってことなんだと思います。

ただ他人からとやかく言われたくないと指示されたくないとか、ご主人様みたいな存在に支えたくもないって言っても、これはそれほど単純じゃなくて、社会生活を営む以上なんらかの形でいろんな人と関わり合いができる。指示するされるは当然あるわけです。そこで言えるのはなんでもかんでも他人から命令されたくない指示されたくなってことじゃない。納得がいくものなら全然オッケーだし、あるいは尊敬するこの人なら言う通りにしますってのもあるし、あとある程度ゆとりがでてくると、その程度のことなら「それで喜ぶなら聞いてあげますよ」って鷹揚な気分も芽生えてくる。そうなってくると納得いくものいかないものどう切り分けるのか?って話になってくる。そこで大切なものは自分の軸=フィロソフィーだってことなんです。自分の人生にとって何が大切かってことです。わたしの場合は実利よりも矜持を重んじる傾向が強いです。実利は自分で十分なんとかできるって自信もあります。矜持は相手がいる話です。わたしみたいに世の中の最底辺から上がってきた人間からするとほとんどの人間は最初から下駄を履いてるんです。

だから「自分の下駄を実力と勘違いしてんじゃないの」て気分はちょっとあります。(もちろん良い人もたくさんいますから下駄が悪いとはいいませんが)ローマ時代の奴隷の話をしましたけどその対極がローマ市民だとしたら、ローマ市民がなんでローマ市民かと言うと市民としての誇りと使命感じゃないかってわたしは思います。奴隷は自分で考えない。市民は自分で考える。わたしは自分で考えたい人間です。ところが現代社会においては、この自分で考えるを放棄している人間がいかに多いか? 言われた通りにすればいいのだとか言われたことさえやっておけば十分だとか、あげくには言われた通りにしているほうが楽だって人間までいる。これは市民になることを自ら放棄して一生奴隷でいたいって言っているようにわたしには聞こえます。でも奴隷にとってはその方は幸せでむしろ自由とさえ感じるかもしれない。結局そうなってくるとその人にとっての自由とはその人の全人的納得の納得でひとそれぞれ固有のもだってことになります。結局わたしにとっての自由は今生きているまさにこの生き様ってことになります。
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トール  

序章、そしてストーリーが完結

ハルトモさん
トールです。こんにちは。
なんとなくですが、今回の第五話のお話はストーリーが急転換しているように感じました。
今回の読み物は全体の構成が済んでない状態で都度アップしているのではないでしょうか?

ローマ市民は考える、奴隷は考えない(いわれたとおりにすれば良い)。
この概念は究極だと思います。
いつの時代も考える奴隷がいるから、このお話があるのだと思います。

もしかして、どんなエンディング、最後になるにかは書いている筆者もわからない?笑い


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