「私の自由人への道 6」ビジネスマンとして売り上げゼロから年商200億円、業界に変革。

2023年08月02日
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私の自由人への道
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ウーロン茶で鶏肉とご飯を炊いてみました

大手の外資系半導体メーカーとひとくくりで言ったところで世界で8万人も従業員がていいろんな事業部がある。わたしが入った事業部は日本では5000人中、500人くらいの規模の事業部でした。グローバルでは1万人くらいかな。ちゃんと御殿場に工場もあって設計実験製造品質保証全部やってました。ところが入って最初に上司のいわちゃんから言われました。「この事業部はだめなんだよ」「俺は近々辞めるからな」って。なんやそれ? だんだんわかっていったのですが、その事業部は自動車部品を製造販売していたのですが実は機械部品をたくさん製造していた。それは自動車の電子化に伴いどんどん売り上げが減っていた。半導体メーカーの強みでセンサーを開発はしたんだけど、日本は系列が強くて外様の外資系じゃとても入り込めない。「まあ落ちるばかかりだな」ってことです。30年以上前は外資系はなかなか入り込めない風土があった。まいったなとは思ったけどそれでもすぐにビジネスがなくなるわけじゃないし、外資系でキャリアでも積んでまた転職でもすっかな?とか考えてしばらくは働いた。そしたら数年したら、そのセンサーの担当をやれって言われたんです。売れないので代々の担当はクビになるというか辞めていくポジション。それをわたしにやらせてみようかという話になった。

さて担当になってわたしは以前のように毎日お客に行くのをほぼ辞めた。その代わりに朝から晩まで大手町にあった自動車図書館に通います。そこは自動車業界が運営している図書館で自動車に関するありとあらゆる文献が蔵書されていて、その中に「日産自動車のすべて」とかブレーキ業界マップとか、自動車業界専門の調査会社というのがあって、一冊数十万円するような調査資料も全部読めたんです。そしこでわたしは何をしたかと言うと、これから自分が売り込みに回るための地図を作っていったのです。どの自動車メーカーがどの車にどのシステムを入れてどんなセンサーが使われているか、どこが製造しているか? その価格は性能は? もちろん実際に部品を買ったりして現品も確認した。数年かかりましたがわたしは自動車部品業界のマーケティングのプロたる知見を獲得します。そこでまた考えました。この地図を頼りにどうやって売りに行く? 今のままでは日本の系列に阻まれて入り込めない。ちなみにライバル起業はデンソーとかでした。そこでわたしは捨て身の営業方針で突き進むと決断しました。業界の常識を根底から打ち破る売り方をした。

自動車部品というのは最初の引き合いは新車発売の3−4年前です。車というのは開発するのに3−4年かかるのです。その間試作品を何回も何回も作る。見積もりも出します。通常自動車部品というのは最初の引き合いから製造まで仕様がよく変わります。形状を変えてくれ、材質を変えてくれ、性能を変えてくれ、耐久性を変えてくれ、だいたいコストが上がっていきます。自動車部品業界では自動車メーカーはお殿様ですから後から仕様が変わったからと言って値上げなんかできません。だからその余裕を見て最初から見積もりを高めに出すんです。それで後から起きる変化を吸収していくのです。それをわたしはこの仕様ならこの値段と最初から目一杯出した。ライバル企業が1000円ていうのを400円500円だと言って売り込んだ。お客が驚いた。わたしの前任者は800円とか900円で見積もっていたんです。それくらいの差じゃお客は動いてくれないしせいぜい値引きの材料に使われるだけ。それが400円? お客はえ?となってそれで商談がどんどん始まった。それでわたしは量産近くなってから、仕様が変わりましたから値段も変わりますと言って400円を800円に値上げする。お客は驚くけど今更戻れないし、それと確かに1000円よりは200円下がっているんです。やっただけのことはあるのです。最初から800円と言ったら買ってくれない。わたしは独特の愛嬌で顧客を笑わせてケムに巻いて値上げを押し切ったけど、意外と顧客からは面白いやつだと気にいられた。それでどんどんとシェアを伸ばした。結局売り上げゼロから年商200億円にまで商売を伸ばしたんです。(グローバルベースで、日本法人は100億円)ダメで元々の大勝負だったんです。ごぼう抜きに出世した。年収もガンガン上がった。10年くらいでの話です。さてわたしはこの10年の間に株式投資で大勝負も並行してすることになります。35歳から45歳はわたしにとって怒涛の10年だったのです。次はようやく株式投資の話かな。
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