「私の自由人への道 4」世界を股にかけるエリートビジネスマンになるぞ

2023年07月31日
0
私の自由人への道
サボリーマン兼車券師の道に見切りをつけたわたしがまず考えたのはこのまま今の会社にいてはダメだってことです。起業はちと無理だ。転職するしかない。ただ入ってまた合わないじゃ年齢的にもキャリア的にも苦しくなる。一発で転職を決めないといけない。わたしは熟慮した上で東京本社に転勤願いを出しました。まず本社をみてみたいという気もあった。見切りをつけるにしても支店と本社じゃ違うかもしれない。それと転職活動は東京の方が絶対しやすい。もともと東京本社で採用されて人事の都合で大阪支店に配属されたって経緯の人間が他にもいて入社して数年経つんで返してやろうかって機運もあって一年くらいで移動が認められました。東京にきて数ヶ月で思いました。本社の方がずっと日本的だ! これは絶対辞めなきゃ。いろいろ調べて聞いて、わたしはご主人様もいそうにない日本的な企業でもない外資系企業に目をつけます。英語は話せないけどなんとなく勉強したら話せるようになる気はした。英語の勉強も始めた。まあ面接対策で英語で自己紹介ができるようにと。転職雑誌でふと目に止まった大手外資系半導体メーカー、あれ?この会社確か麻雀仲間のトミーが入った会社だな。トミーはわたしの浪人生時代の友人で今でもつきあいのあるトシくんの高校の同級生で、静岡の西のほうにある進学校の出だった。一緒によく麻雀をやっていた中だった。自分で勝負師と名乗っていたトミーがいる会社ならわたしも合うかもしれない。

トミーの連絡先はわからないけどトシ君に聞いたらすぐに連絡をとってくれて話まで通してくれた。トミーから人事部に紹介されてそれでわたしは面接を受けることに。呆気なくとんとん拍子にわたしの転職活動は終わりました。よくわからんうちに採用になった。「君の熱意を買ったよ」と採用マネージャから言われました。トミーの推しもあったようです。トミーは学生時代の雀士としてのわたしを覚えていて、会社でもやるんじゃないかと思ってくれたそうで、学生時代に打ち込んだ麻雀も無駄じゃなかったって初めて思いました。わたしはいろいろ転職活動するのではなくそこにお世話になることにしました。今にして思うとその時に決断してよかった。わたしが転職した1990年はまさにバブルの終焉を迎えようとしていた時代で、なんと翌年からガラガラと景気がおかしくなって、わたしが入社した会社も新規採用を取りやめたほど。もちろん中途なんか取らない。一年遅れていたら、世の中全体がデフレの時代へと突入して転職なんかできなかった。転職したのは32歳、もしもそれで最初の会社に残っていたら40歳くらいにすぐなってしまい、どうなっていたかはわからないけど、まあ今のわたしはなかったでしょう。ギリギリのところでうまく動けた、というのは後から思う話。

東京に転勤したいと4月に転勤してきて、やる気まんまんと思われていたわたしがわずか3ヶ月後の7月末には辞めると言ったので会社は驚愕して、大阪支店長まで東京にやってきて引き止められた。ただ東京本社だから辞めやすかったというのはあったと思います。大阪だったら辞めづらかった。結果としてそれも転勤して正解。辞めた時は係長だった。たぶん課長くらいまでは実力派課長としてバリバリ仕事をこなしたとは思うけど、その先があかんでしょということです。ちゃんと先のことまで見ていた。わたしてのは自分でよくわからないのはずいぶん先のことを考えているわりに決断よくポンポンとよく動く。それでほとんど間違えない。もちろんこれも後から思うこと。わたしは最初の会社を辞めてすでに30年以上すぎていますが、最初の会社の人たちとは10人以上いまでも親しくさせてもらってます。遊びに行くし遊びにもきてくれる。那須にもきてくれてます。一生おつきあいできる関係が築けたってこともあるし、最初の会社はわたしを育ててくれた本当にありがたい会社だったと感謝しています。ということで最初の会社は引き継ぎで8月いっぱいで退職して1990年9月から新しい会社で働くことになるのですが、、、世界で8万人、日本は5千人以上いる会社でいろんな事業部があって、わたしが入った事業部は、、、実はとんでもない潰れかけの事業部だったのです。これには驚いた。「だから俺みたいのを採ったのか?」

関連記事

Comments 0

There are no comments yet.

コメント投稿

更新順
同カテゴリ