「差異と反復」 わたしはなぜ差異を反復するのか。
2023年02月25日
今日の文章は少し力を入れて読む必要があるかもしれません。できれば元気な時にお読みください。元気でない人は読まなくていいです。
わたしは子どものころから協調性がないと教師から評価されていて、それは社会人になっても同じで勤務していた外資系企業では評価項目の中にLeadershipとともにFollowershipというものがあったのです。聞きなれない英単語かもしれませんが、いわゆるフォローです。リーダーを支えてフォローする能力と言えば聞こえはいいのですが、要は従順かどうかって話です。外資系企業の全てを知っているわけではありませんが、欧米企業てのは上に行けば行くほど日本企業よりも部下に従順性を強く求めます。さからう奴はクビなんです。ファーストネームで呼び合ってフランクに見えるけど絶対服従なんです。ただ絶対服従なだけじゃダメでその上でトップの意向を組織に浸透させる必要があって、そのためには服従と見透かされずに激しく同意しているという演技力が必要で、それがフォロワーシップです。わたしはそのフォロワーシップの評価は上に行くほど下がりました。演技しようと思えばできるけど低くていいと思ったのです。
わたしは裕福なボンボンの生まれです。お抱えの運転手で幼稚園に通っていた。だから人を疑うなんてことがなく7歳くらいまでは育ったのです。ところが会社が倒産して両親も離婚して児童養護施設に行く。だんだんわたしから見ると油断のならない大人に囲まれるようになった。別に悪い人たちってことじゃないです。当たり前ですが施設の子は自分の子どもと同じじゃないのです。加えてわたしの場合は実の親もまず自分のことを心配していました。当時はそこまでわからないけど、いいなりはまずいって感じた。そこでわたしが身につけた所作は、人をいきなり疑うのではなく、人の言うことを聞く前にまず自分で一から考えるという習慣です。自分で考えてから初めて人の言うことを聞く。なんなら聞かなくても良い。人の言うことを最初に聞いても信じて良いかわからないので真に受けないのです。ただいきなり人の言うことを嘘だとかは決めつけない。それは疑うことを知らないボンボンだったからだと思います。子どもは捻くれると自分で考えずに大人の言うことの反対が正しいと決めつけるようになる。わたしはそうではなかった。
ただ一方でわたしは人を非常によく観察します。周囲に敏感な野生動物みたいなもんです。わたしは実は人の言うことはよく聞いています。人の言うことを聞かない人間というのは自分がまくし立てる人が多いです。そういう人は自分の言うことを聞いてほしい人です。わたしは聞いてほしいというタイプではない。何も反論するわけでもないけど、ただちゃんと聞いているとは到底思えない、という大人から見ると薄気味悪い子どもだったと思います。わたしから無視されていると感じる先生が多かったようです。実際はそうじゃないんですけどね。わたしが自分で考えて自分なりの答えを見つけるまで先生が待ってられないわけです。他の子どもは最初から当たり前のように先生の言うことを信じているんですから。ここからようやく「差異と反復」という話になります。疲れた人は一旦休んでまた別の記事としてお読みください。
わたしは物事を一から自分で考えるという性向があるわけですが、わたしから見ると世の中の多くの人は、同一性から物事を考える傾向が強いと思います。物事を考える時に一から考えると効率が悪いです。答えもなかなか出ない。そこで上司の言うこと親の言うこと先生の言うこと、世の中で広く言われること、みんがそうだと考えるコンセンサスを自分の思考の中で是として出発します。つまり何か参考にすべきものと同一であることが良いことだと無意識で思考を始めるように子どもの頃から刷り込まれているのです。わたしの場合は生憎か幸いかそういう刷り込みがない。わたしがなんにも人の言うことを聞かないわけではないです。むしろよく聞いているくらい。ただそれが正解だとは思って聞いていないということです。わたしからすると一から自分で考えたらそういう結論になりっこないはずなのに当たり前のように人の言うことを信じて実は利用されているって人がとても多いです。そういうことですから、自分でいちから考えた答えと多くの人の答えとが違ってしまう。同じになかなかならない。そういう人間はどうなるでしょうか? 差異をためらわずに反復するようになるのです。
同一性からものごとを考える人は、仮に局面的に多数と違う考えを持つに至っても、それを反復して続けることができない。心の奥底で他人と違うことはよくないことだという刷り込みが入っているので、なにかの拍子にすぐに同一性に回帰してしまうのです。つまり世の中の多くの人は同一性から差異を考えるということです。わたしの場合は差異そのものが独立していると言うか、そもそも差異じゃないのです。自分の答えだというだけのこと。だからそれを続ける以外に続けるものが他にない。自分で答えを出した時にそれが多くの人の答えと違うことは自分でわかります。ただわたしはその違うものをそれこそ平気で反復することができるのです。どんなに良い答えでも継続することができなければ結果はでません。わたしは人から何を言われようが、それが何年続こうが、自分で出した答えを継続するのです。他に選択肢がないのです。もっと言うならあえて逃げ場を用意しない。だからこそ結果が出せるのです。もちろん修正も変更もしますけど、わたしにとっては同一性が帰る場所ではないということです。だいぶ長くなりましたが、これがわたしの考える「差異と反復」です。フランスの哲学書は読んでもいないし本文と全く関係がないことを念押ししておきます。
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