どの時期をどう生きれば人生の幸福度満足度に繋がるのか?−2

2022年07月25日
0
人生の考え方
16586730880.jpeg

結局結論は、現状で見込みなしと弁えた以上は見切りをつけるしかない。会社はとにかく辞めなきゃいけないけど、辞めればいいで済むわけがない。辞める以上はステップアップにならないとって考えました。別に会社が嫌いで毎日に仕事で嫌でたまらないってわけじゃないし人間関係も良好だったので、作戦を考えました。まず東京への転勤を強く希望した。もともと大阪支店に配属された経緯もいろいろあってどこかでわたしを東京本社に戻してくれって希望は理が通っている。大阪にいたらみんな暖かくて居心地が良くて気持ちが定まりにくいってのと、大阪では働きながら転職活動はできないって思ったのです。

それで一年後に転勤が叶った。東京本社に行っても会社の印象は変わらない。やはり辞めようとなった。結果から言うと4月に転勤してすぐに転職活動を開始して8月末で会社を辞めました。その時に自分は外資系がいいかなって気分はあった。背景に会社で毎週無料の英会話教室を受けさせてくれていたんですが、それを契機に少し英語の勉強をするようになって、どうせ働くならグローバルな舞台で働きたいという気持ちがあった。それに加えてメーカーで働きたかった。自分がいた会社は商社だったんだけど、結局商社じゃ開発にも価格決定にも関われない。売るだけじゃつまらんって思っていたのです。

外資系の製造メーカーってことでターゲットを思いを馳せるとふと思い出した。先日も那須に遊びにきてくれた旧友の一人のトッシーのそのまた幼馴染のトミーが確かアメリカの半導体メーカーに就職していたなって。実はトーミーとは2−3回トッシーのところで会っている。それで調べるとその会社募集をかけている。転職雑誌にでかでか載っていた。それでトッシー経由でトミーに連絡を取って募集について聞いたところ、受けろ受けろという。トミーはしっかりした良い会社だって言ったけど、実はトミーは財務部の所属で財務部はすごくしっかりとしていた会社なんだけど、その事業部自体はかなり混乱していたってことは後の話。そんで受けたら受かった。って簡単に書いたけど20人ほど受けて2人だけ採用だったんで狭き門だった。

でも不思議だったのはもう一人は英語がうまくてそもそも外資系企業からの転職、わたしは英語が下手くそで(面接は英語交えて行った)日本企業からの転職でどうみても見劣りする。後日最終面接したマネージャーになんで自分が選ばれたか聞いたんです。そしたら当時は外資系っていうと英語屋が幅を利かせていて、外資を渡り歩くような外資ゴロもいて、社会人としてずれている人間が多かったので、それで多少はまともな躾を日本企業で受けた人間を取ろうかって話があったのと、それとわたしはやれば英語ができるようになるってそれはわかったそうです。日本語がしっかりとしている人間は英語が上手くなるんだそうです。もっともその場合の英語が上手いは、流暢に話すという意味でなくて英語と日本語を交えてコミュニケーションを取るという意味ですが。たぶんトミーのプッシュもあったしその前にトッシーもわたしのことを信頼できる人物だと推してくれた。それも効いたのかもしれません。友達を大切にするって大事なことですね。

ということで無事に入社した。1990年9月です。大阪支店から転勤して半年後には外資系企業のエリート? いやいや駆け出し社員。ところがすぐに不景気が襲ってきます。それ以上に入社した事業部は構造的な問題を抱えていたことを知ります。それは売るものがないというメーカーとして恐ろしい状況でした。わたしが入社した会社は半導体メーカーではありましたが、入社した時にグローバルで社員は85000人いました。日本法人が5000人。実は半導体以外にいろんなビジネスをてがけていて、軍需産業とかもやってました。わたしが入った事業部は、自動車のオートチョークとかキャブレターとかあとエアコンのスイッチやバルブを製造していたのですが、自動車はどんどん電子化されて売り上げがどんどん減っている。数年後にはほとんど売り上げがなくなってしまうという危機的な状況だったのです。つまり数年以内に何か新しいビジネスを立ち上げないと事業部が分解するような状況だった。正直驚きました。てっきり優良企業に入ったとばかり思ってましたから。
関連記事

Comments 0

There are no comments yet.

コメント投稿

更新順
同カテゴリ