賢いのか、それとも馬鹿なのか?
2022年05月02日
小学生の時に家の事情でたくさん転校しました。忘れましたが7−8回転校したと思います。転校をする度に通知表はもらうわけですが、先生によって激しく評価が上下したことを覚えています。ある先生は国語算数理科社会全部5段階で1とつけました。その先生から見るとわたしは馬鹿に見えたのです。ところが転校して違う学校に行くと、国語算数理科社会全部5なのです。さすがに中学生になるとテストの点数が出ますのでわたしのことを馬鹿だと言う先生はいなくなりましたが、それでも先生によって評価が割れていたことは覚えています。
この傾向は大人になっても変わりません。会社でわたしのことを評価する人がいる一方で、逆に馬鹿だとする人がいたのです。会社ではわたしのことを馬鹿だと評価していた人間はわたしが抜群の実績を上げ続けると不思議がりました。馬鹿なのに運だけで実績を上げていると思われたのです。ブログも17年も書いていますけど、わたしのことを馬鹿だと言う人はいつもいます。一方でわたしのことを凄いと評価する人もいます。別にどう評価されようが構いませんが、それが実力と思うかただラッキーと思うかの差にはなっていると思います。
わたしは子供の頃から人によってわたしへの評価が大きく異なる経験をしました。わたしの結論は他人の評価はあてにならないということでした。たぶん賢いとか馬鹿だとかいう以前に思考回路が違うんだと思います。ある人から見ると決まったことがなぜわからないと馬鹿に見える。わたしは先入観とか既成概念なしに一から考えるので言われたことをそのまま受け入れない。だから一瞬もたもたする。そこでこんなこともわからないのかと馬鹿に見える。さらに突拍子もない仮説を言い出す。ますます馬鹿に見える。でも仕事でもまあ投資でも結果が出るものはその結果が優先されるので結果を出すわたしを馬鹿とは言えなくなる。でも心の中ではラッキー野郎としか思われない。投資関連ブログを長年書いていますけど、わたしは豊かな人から高く評価されて豊かでない人から低く評価されるという傾向はこれは明らかに感じます。億り人でわたしのことを悪く言う人はいない一方でわたしの悪口を言う人でわたしより儲かっている人はいないのです。
わたしは自分を認めて欲しいという気持ちは低いです。あまりにバラつくので気にしてもしかたない。結果を出せば少なくとも認めざるを得ない。だからさっさと結果を出せばいいのだと考えます。実際結果を出せばつまらない議論などする必要もなくなります。わたしがブログを書き出した17年も前には、そんな考えでは必ず将来こけるとアドバイスならぬ警告をよく受けました。今はそんな警告は来ません。こけそうもないと認めざるを得ないからでしょう。ただ相変わらずラッキー野郎だとか、勘だよりだとは思われているでしょう。まあそうならそれでいいです。一生ついているでいいのです。説明する気もないです。
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