人生の達人になるためのファーストステップ
2022年01月05日
わたしは哲学を学んでいるわけじゃないので、この言葉をどう自分なりに捉えるかというだけのことですけど、確かこのデカルトの言葉は高校の倫理の授業で教わった記憶があります。我は思うから、だから自分があるんだと、、それ以外に絶対的真実はない、とか教わった。だからなんだと高校生のわたしは思いましたね。つまりその先を授業では言わなかったと今は思っています。つまり何が真実だという重みよりも、自分が思うことそのものこそ、つまり自分から見えるもので自分にとっては世界が構成されているということです。
平たく言えば、人生は辛いものだと思う人がいる。一方生きているということは楽しくて素晴らしいと思う人もいる。どっちが正しいのかという議論は意味がなくて、まさに自分が思った通りのものであるということ。つまり絶対的であろうがなかろうが、自分から見えているものしかないということです。今のわたしはそういう理解をしています。なぜか?わたしにはそう見えるからです。そしてはなはだ都合がよく具合がよろしい。まさに我思うです。
そうは言っても悩んだり困ってる人に向かって、くよくよすんなって言っても響かないってこともわたしはわかっています。悩んでいる人はそんな世界観よりこの今共感してほしいのです。慰めてほしいのです。それは間違っているんですけど間違っていると突き放すと話が終わってしまうわけです。そこでわたしが考えたのは、、、。わたしはよくここで「勝手に自分の頭で足すな」って言います。起こっていないことを勝手に妄想して、ああもうダメだとか勝手に嘆く人があまりに多いからです。もしも怖い病気だったらどうしよう、、、どうしようってまだそうはなってないし、それにそうなら治療するしかないでしょ。
まず現実だけ見る。そこが出発点です。冷静になってそこをまず受け止めるようにならないと、自分の世界観の構築が始まらないと思うのです。そして現実を直視する段階の先に、きっと良いことが起きるという前向きな気持ちが生じて、さらにその先に「起きること全てが素晴らしい」という世界観がある。最初からその世界観には来れないということですね。わたしは子どもの頃、なんで俺ばかりこんな酷い目に遭うのだと思っていました。でもいつも同時に思っていました。冷静に考えればかならず出口はある。解決策はあると。それでとにかくできることをやろうと思いました。できることを真剣に考えていると頭の中は忙しくなります。つまり行動を伴う思考で頭が満たされる。確かに心配は心配だけどどうしようもないことはまあそうなってから考えるしかない。それより自分でできることなら、仮にそれが起こらないことでも先に手を打っておけば良い。自然とそう考えるようになったんです。
ただなんとなく良いことが起きると楽観するのとは違うということがおわかりいただけるでしょうか? 悲観もしないけど楽観もしないのです。最悪を想定してできるだけの手を打つ。やるべきことをやる。それだけやったらなるようにしかならないし、手が打てないものは、手が打てるときになったら考えればいいのです。その上で起きたことは素晴らしい。どんな素晴らしいでもいいんです。「運命の女神め、そうきたか!なかなか俺を遊ばせてくれるじゃねか、面白くなってきたな。」それでもいいんです。え? そうは考えられない? 何もわかってないですね。全部あなたの頭の中でやってることなんです。誰もあなたの頭の中に入ってきませんよ。だって君思う故に君ありなんですから。
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