海に沈んで引き上げられた特攻機
鹿児島県の知覧という地名。そこに何があったか知らない方もいるかもしれない。知覧にはカミカゼ特攻隊用の空軍基地があって、日本全国から若者が知覧に集められてさらにボロい飛行機も知覧に集められて、そこから沖縄に向かって特攻攻撃へと出撃した。特攻攻撃そのものは1944年にフィリピンで始まったが日本が敗走するにつれて特攻場所も本土に近くなった。知覧だけで1036人が特攻して多くは体当たり叶わず海の藻屑となった。特攻が成功したのは最初だけである。米軍は当初狂ったかの如き戦術を組織だって継続してやっているものと思わなかった。だが日本軍が組織だってやってきていることがわかると徹底的に対策をして迎撃した。一方で特攻隊も最後は少年兵なども入り技術も低くさらに機体も十分な性能のものでなくなって余計成功率は下がった。アメリカ軍からみると狂った戦術だが、それは日本の高級参謀や将軍が主導して、それこそ陸軍海軍総力を上げて推進した。その出撃した特攻隊員たちのいろんな記録が残されているのが知覧特攻平和会館である。日本人として一度は訪れねば考えていた場所である。展示品を見てまわりさらに特攻隊についての講演を30分ほど聞かせてもらいざっと3時間ほどの滞在であった。
繰り返しません、過ちは。という有名な言葉が広島長崎の式典などで使われているけど、じゃあいったい誰がどんな過ちをおかしたのだ? それこそ反省の出発点であるべきなのに、決して具体的に語られることはない。むしろ率直な議論を避けていると見える。案の定と言ってもいいことに、知覧特攻平和記念館も同じトーンであった。何もわかっていない若者を洗脳してお国のためと称して自爆攻撃を強いた。その首謀者は上に書いた通りまさに陸軍海軍の高級参謀と将軍である。中でも黒島氏が体当たり攻撃の発案者かつ推進者と言われている。追随したのが大森氏との話もある。彼らは戦後戦犯にも問われることなく戦後を悠々自適に過ごして亡くなっている。その間、自分に不都合な資料の隠滅を図ったと思われる行動も記録されている。こんな理不尽があるのだろうか?言葉もなく佇立するのみである。黒島氏をはじめとして特攻作戦の戦略的作戦遂行を進めた人間たちを糾弾するトーンは知覧にはない。ただただ若き命を散らした英霊に感謝するのみ。決して犬死だったなどとは言わない。こんな狂った作戦で死に追いやられた若者を美化したい気分が日本人にはあって、それは為政者にはまことに都合が良いのだと妙に得心する自分。
特攻隊の年表というのは目立たぬ感じで展示されていたが、そこにこの作戦を主導した人間たちの名前とどんなことをしたのかが掲載されていた。館内は撮影禁止であるのでどうしてもその年表が欲しいと頼むと300円でわけていただけた。わたしのブログの読者にもぜひ見ていただきたい資料であるので写真を縮小せずに掲載することにします。その年表によると
<体当たり特攻作戦を主導的に推進>
大西滝次郎中将 1945年没 終戦で自殺
黒島亀人少将 1965年没 戦犯にもならず悠々自適で天寿を全う
大森仙太郎中将 1974年没 戦犯にもならず悠々自適で天寿を全う
<推進>
中沢佑少将 1977年没 B級戦犯で3年服役も有罪も悠々自適
岡村基春大佐 1948年没 自殺
福留繁中将 1971年没 戦犯となるも3年服役で悠々自適
源田実大佐 1989年没 自衛隊で高官となる
富永恭次中将 1960年没 シベリアに抑留、帰国後別件で非難されるも黙秘
年表に現れた特攻作戦を進めた指導者たちである。誰一人として戦死していない。狂っている人間はもともと狂っていて、その言い分が通ってしまうというのがいわゆる狂った時代ということじゃないかしら? 自殺した者を肯定する気には到底なれない。生きるに耐えられず死を選んだのと死を強制された若き特攻隊員とはまるで意味が違う。それにしてもなぜ日本人は彼らを含め戦争指導者の責任を問わないのか?まったく呆れるくらい為政者に気前がよく都合のよい民であると感心するばかりである。


- 関連記事
-