人ではなく行いを揶揄する
2021年12月03日

島津家の威厳の象徴
鶴丸城御楼門
よく罪を憎んで人を憎まずというわけです。これが罪でなくても同じにしてはいかがでしょうか?というお話。行動への評価と個別の人格に対する尊敬はいっしょくたにしないほうが良いとわたしは考えます。つまり尊敬しつつ軽蔑するということ。これは矛盾しない。尊敬すべき人が軽蔑すべき行動に及ぶことは大いにありえるわけです。もちろん軽蔑すべき人が尊敬すべき行動に及ぶこともある。でも人間に対する評価って行動の結果ですよね。軽蔑すべき人が尊敬すべき行動をすることはたまにあるけど、でもなぜその人が軽蔑すべき人かと言うと軽蔑すべき行動を積み重ねた結果のわけです。じゃあ一緒か? だから違うでしょってことです。一人の人間は多面性を持ちまた時間軸で変化もし、気分も変われば行動もかわる。単純な人格への評価でくくれないということです。普段見せない本性もある。頻繁に見せる偽善もある。
だからおかしいなとか感心できんなと言う行動とかあるいは考え方とかは、たとえどんな立派な人がやってもそれを抽出して揶揄批判することは躊躇しなくて良い。逆に市井の人でもその行動に感動して称賛するとか、要は人を見る時にタグに気を取られて本質を見誤りたくないということです。わたしの書く文章は人を舐めたり馬鹿にしているところがあるとたぶん思われています。あえてブログではそこを強調しています。伝わり方を強くしている。もちろん実際にもやります。児童養護施設で子どもたちと接する中で最初子どもは反発しました。わたしが子どもたちの心の中に住む負け犬根性からくる行動を馬鹿にしたからです。それくらいでないと負け犬根性体から追い出せない。甘い共感で全体を包んではいかんと思ったのです。本気でのその子に向かい合うなら、おかしなものはおかしいと、馬鹿にするという手法をあえて使う。エスプリとか批評家精神とかは観察の対象に対する暖かい眼差しがあるからこそ生きるてことじゃないかしら。

こうやっていろいろ歴史を辿って
歴史の動きとその人物の心の動きに思いを巡らすと
自分自身も刺激されて
それでなにかテキストが出てくる
旅が好きです
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