日本人の幸福度が低い根源的な理由は何か?
2021年05月23日

渋谷のスタバとかカフェなんて怖くて入る気もしないけど
ちょっと歩くと緑が多い公園でまったく密じゃない
コーヒーをテイクアウトしてくつろげば
オープンエアーカフェです
日本人の幸福度が低いというのはいろんな調査で知られた話のわけです。なぜ低いかの理由も調査があって、寛容度にあるらしい。寛容度という意味はどうやら自分の境遇とか環境とかあるいは接する他者を受け入れて許容する度量のことを言っているんだとわたしは理解したけど、そうであれば、確かに日本人は寛容度が低いとわたしも感じる。日本人はブログとかツイッターとかで好きなことを書かせると、苦境を嘆くとか愚痴を言うとかあるいは不平不満や鬱憤の発露が、どうみたって、人生を楽しんでるって発信よりずっと多い。自慢話でも書こうものなら眉を顰めるのが日本人。日本人の芸能人とか政治とかへのバッシングは外国人から見て度が外れているというレポートも読んだことがある。ちょっと不倫したりヤンチャをしたでけで、国民総じて叩く必要があるのか?って外国人は思うらしい。
日本人が寛容度が低いから幸せに感じられないというのが仮にそうだとして、ではなぜ日本人はそんなに寛容度が低いのか、あるいは低くなってしまったのか? これは考えてみる価値があると思う。まず日本人の特性としてなにが言えるのか? その日本人の特性と寛容度は関係がありそうか?て思考順序にしてみたい。日本人はまず人と違うことを避けそして排除する傾向が強い。それから変化というのを極端に嫌う。これは日本人が一番幸せそうな時代を考えるとわかりやすい。この国で国民全体として一番せだった時代は江戸時代とわたしは思う。落語のネタや時代劇でも明るいものが多く、たいていの日本人は江戸時代を経験していないにもかかわらず懐かしさを感じている。なぜか? 同質性が突き詰められて身分も固定されて変化が少ない社会だから。安心して自分の身分を演じることができるからだとわたしは考えている。
日本人というのは成り上がりを嫌う。変化を好まず異質なものを排除したがるからだ。ところが、現代は成り上がり者逆に成り下り?者で溢れている。うまくいく人間うまくいかない人間、勝ち組負け組という表現はともかく二極化している。江戸時代を比べて江戸時代の変化の度合いを仮に10としたら今はいくつだろう? 軽く100はいってんじゃないかしら? 日本人は変化を好むと好まざるに関わらず世界の潮流ともども変化の時代を歩んでいる。たぶんこれが日本人にとっては苦痛なんじゃないかしら? 変化と言っても高度経済成長時代のように全国民が同じ方向を見て一方向に邁進しているかぎりは安心できるけど、今はどうにもそんな時代ではない。混沌の時代を言ってもいい。これが不安を煽っているとしたら、国民が総じて寛容度が低い理由としてわたしは得心がいく。変化を好まない人間が変化に直面すると不安になり心のゆとりと安寧が保てない。だから寛容度が低いのではないか?
だとすると、話の流れてとしていかにして日本人は自分の心の安寧を手にできるのか?になる。そこが解決すれば良い。わたしの結論としては一人一人が幸せになるしかないってことです。たぶん日本人は資本主義とか民主主義も本当は合ってないんだと思います。民主主義ってのは自分たちで決めましょうって政治だし、資本主義はそれこそ変化によって成り立っている制度だから、日本人にはいかにも合わないって気がする。誰かが良いように決めて欲しい、でも文句は言うって日本人がやたら多いけど、自分で決められないならいっそ文句も言えないようにされた方が、心が定まるかもしれないなどと考えたくなるわけです。もちろん個人的にはそんな制度をわたしは望まないけど国民の幸福度という観点で考えるとどっちのほうが幸福度が高いかってことです。でもいまさら革命も起こせないのが日本人のわけですから、であるなら一人一人勝手に幸せになってくださいとしか言いようがないということです。
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