勝負師にとって勝ち負けよりも大切なもの

2021年05月15日
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株式投資
細かい話を端折っります。トヨタを3000円以下で買ったわたしは目標額を6000円と買った時から決めていた。それで6000円直前から売り上がって6000円代前半で全部処分した。潔くやった。わたしが売った時にはトヨタは8000円は軽いと市場で口コミや評論家が言っていた。そこで普通の人は考え出す。6000円を目標にはしたけどこの勢いならもっと騰がるのではないか?ここは市場についていこうか、なとどもっともらしい理屈が出てくる。それで6000円で売らずにしばらくホールドすると、ピンポンである。6500円を超えて7000円近くなってきた。こうなるともう自ら設定した出口が見えなくなっている。ところが豈図らんやそこから株価は下落を始める。なんと下がって最初の目標額の6000円さえ割り込んできた。こうなると急に自信が揺らぐ。とうとう5500円になった。これで我慢しきれずに売り出す。やれやれ5500円で売り切った。でも3000円以下で買ったんだからおよそ倍になった。これは大勝利だ。これだけの利確なんだから成功だ。もしこんなことをしている人がいたら、まあ次の勝負はおぼつかないでしょう。勝負師じゃない。なんで最初に6000円と決めて見事6000円まで上がったときに売らなかった? なぜ自らのフィロソフィーを放棄した?

わたしは自分で出口が6000円と決めた時に軽い気持ちで決めてないです。絶対に6000円にはなると確信してそこに賭けた。では目論むどおり丁半の丁と出た以上潔く場銭をかき集めて賭場を後にする、格好いいじゃないですか。まさに勝負師。自分が勝負師として小説の主人公を演じるくらいの矜持がある。おたおたして二転三転じゃ、みっともなくて主人公にはなれやしません。そんな格好悪いこと負けるより嫌なんです。もっともわたしは負けませんけどね。世間のセオリーなんてどうでもいいし知らないです。そんなものなくても全く不自由ござんせん。勝ち負けよりも勝負師としてのスタイルにこだわる、だからこそここまで不敗でいられたとわたしは思ってます。結局最後勝ちきって賭場でもカジノでもさっそうと後にしたくありません?そこまでいってこそ初めて勝負の勝ち負けなんです。

阿佐田哲也の小説にプロ同士の死闘の話があって、押入れ一杯に万札がうなっている。でもそのプロにとってはそんなものただの記号でしかない。道中の金は記号、それでいつか勝負を終える時に初めて記号は金に変わる。そのプロは押入れ一杯の万札を全部溶かしました。でも負けても引けない時が勝負師にはある。勝負師であり続ければいつか無一文からでもまた巻き返せる。勝負師としての姿勢を捨てたらそのときに勝負師としては終わる。そんな話でした。わたしはすでに記号を金に換えた男なんで勝負師としては終えている。上手にうまく終えたのは僥倖でしょう。ただその分小説の主人公として影がなくなった。その代わり実生活の安寧と幸せを手にしてこうやってブログで自慢して暇つぶし。これも勝負師の成れの果てと言えば言えそうだけど、でもドサ健と言えどもわたしは笑えんでしょう。勝負師と言えどどこかに幸せを求める気持ちは残っているからです。そこは阿佐田哲也氏も随所に描いている。それが実現しないからこその影なんですがね。
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