嫌いな言葉を持たないこと

2021年04月11日
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人生の考え方
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先日ご紹介した缶つま
快感いや開缶しました

嫌いな言葉てありませんか? 聞いただけで嫌な気分になる言葉。でも誰しも不愉快になる罵詈雑言は別として、たいていの場合それはご自身の先入観であり既成概念です。誰かがその言葉を使ったときに相手の意図以上に自分で勝手に感情を乗せているのです。その人が何を言わんとしているか素の心持ちで聞いてあげることが望ましいのです。現代国語が苦手な人で相手の言っていることを一旦引き取らないで聞いたはしから自分の先入観を乗せてしまう人っています。でも人間は人それぞれ、まったく違った環境で生まれ育ちそして今を生きている。自分にとっては思いもよらぬ言葉の使い方をする人だってこの世にいくらでもいるのです。

例をあげてみましょう。わたしはサラリーマンは奴隷だとかここで書いてます。奴隷って言葉嫌いな人おられるでしょう。さてこの言葉の意味するところはなんでしょう? サラリーマンが奴隷なわけはありません。わたしだって何十年とやってきました。ただ組織へ従い逆らえない隷属的な性質は持っていることは否定できません。多くのサラリーマンにとってそれが幸せに生きることの阻害要因になったりします。考えると辛くなるので目を背けて生きる人もたくさんいます。そんなものさの諦めもあったりする。ただそこを真正面から捉えないと、ブレークスルーして本当の幸福感を得るのは難しいとわたしは考えています。その上でのサラリーマンは奴隷だという言葉遣いのわけです。

貧乏人という言葉も同じです。貧乏人は金がないのが貧乏人以上に、自分の中に卑屈な貧乏根性を育てあげてしまうことこそが問題です。自分の貧乏根性と一度向き合ってそれを追い出す必要があるのです。そのためには自分を飾らず誤魔化さずに、あえて貧乏人と言い切っているわけです。勘違いなされないように言いますけど、わたしはこのブログを読んでみんなにわたしの真意をわかってほしいと思ってなんかいません。なんとでも好きに読めばいいのです。ただわたしの文章が読んでもし面白いなら、そこです。読んで読者が考える部分をどれだけ大きくできるかのわけです。いちたすいちはにだ、なんて文章はわたしは書きたくありません。

ただ読んで自分でどう受け止めて考えるにしても、自分で強いバイアスをかけてしまうと自分に心地よいものだけ受け入れるだけで、驚きとか気づきとかしにくくなります。誰しも生まれた時には嫌いな言葉なんかなかったのです。生きてきて自分で勝手に足しただけなのです。以前凡夫は言葉に応じ賢者は人に応ずるという記事を書いたことがあります。この記事はその延長線の記事ですが、言葉に反応せずに人に応ずるからこそ、言葉はむしろ自由を得て飛翔する。嫌いな言葉を持つということは言葉を縛り付けていることにならないでしょうか?とわたしなどは思うのです。


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