なぜ日本人の幸福度は低いのか?
2021年04月01日

さいたまのホームコースは桜が点在していてどれも満開です。
自分のブログの記事がたまため目に入る。読んでみるとなかなか良いことを言っている。激しく同意する。自分が言いたいのと同じことをこんなに上手にまとめる人間がいるんだなと感心してしまいます。中身もあるけど、結局リズムと読後感だなって思います。わたしのブログの長い読者から言われることに、「安心して読める」というのがあります。何を読んでひとまず損した気にはさせない。不愉快にもさせない。自分はこういう人間だという軸を前面に出しておいて、その上でいろんな話題に話が飛ぶけど、なにか脈々と流れるものがあるって文章を書きたいと思ってます。何を書いてもハルトモらしいという文章に自然となります。
時々ブロガーで文章がお上手ですねとか言われて喜んでいる人もいますけど、わたしは文章が上手いなんて言われたことがありません。それは読者の方の見識が高いからでしょう。わたしの読者はつまらないお世辞は言わないのです。お世辞とか迎合ばかりがコメント欄に並ぶブログは品性がないとわたしは思っています。なぜならお世辞を求める作者だからお世辞が来るのです。会社でおべっからされて喜ぶ上司だから部下からおべっかがくるのと同じです。だいたい文章が上手いと褒められて喜ぶ作家はいません。文章力を褒めて欲しくて書いているんじゃないのです。わたしが書く文章は、初めて聞くような理屈なんだけど、どこか懐かしい、言われてみるとあーそうだった、と忘れていたことを思いださせる、というコメントをいただいたこともあります。たぶん安心して読めるに繋がっていく言葉かなって思います。
統計でも出ているようですけど、日本人の幸福度はなぜ低いのでしょうか? これはいろんな言い方はできますけど、手短に言うなら、日本人は自分の幸せに感謝することが苦手だということだとわたしは思っています。感謝しましょう、なんて盛んに唱えるんだけどどこかなにか軽い。わたしが思うには、感謝というのは誰それに向けて感じる気持ちの一段上に本質があるものです。例えば、育ててくれた親に感謝する。もちろん、ありがとうという意味での感謝はあっていいのですけど、そのありがとうを超える次元で、自分と自分を囲む全環境に対して肯定的な気持ちに包まれるという感謝です。つまりなにか恩を受けたから感謝するのではなく、いまここにいる自分こそがまことに有り難いと受け止める感謝。これが昇華すると、決してお世話になったとは言えない親でも、その親にはありがとうと感謝はしませんけど、自分の親の存在を肯定的にとらえて、自分が幸せな気持ちに包まれる。全体として肯定的な気持ちの中に親のイメージもある、という状態がおきます。
逆の言い方もできます。いくら感謝を唱えたところで、自分が幸せだと感じていないなら、それは本物の感謝ではないということです。自らの内部から湧き起こる幸福感の自然な発露こそが、本当の感謝だとわたしは思うのです。その「わたしは幸せです」が、日本人は低いということであるなら、実は感謝などしていないということになりやしませんかと、そういうことで感謝が苦手な国民だと申し上げたわけです。感謝というのは自分の心の中から依存的でなくむしろ自立的に湧き起こる感情であって、それは自立的に幸せを求めて生きていく中で成長する感情と言えるかもしれません。誰かに幸せにしてもらうのは否定はしませんけど、それ以上に強く自分が幸せになろうと願い行動することが大切だと、わたしはそう考えて生きております。こんな真面目に書いてこれはエイプリルフールだ、ポエムだって言われそうです。
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