なぜドラマの町工場の社長はみんないい人なのか?

2021年01月25日
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映画・ドラマ・音楽
那須とさいたまの往復の車中で日本のテレビドラマを聴いているわけだが、ドラマの中に町工場の社長が出てきたら、100%善人でかつお人好しである。町工場の社長に悪い人は一人もいない。これは国民的コンセンサスと言っていいくらいである。なぜそういう設定になるかと言えばそれは見ている人間がそれを求めるからだと考えるしかない。それ以外の職業だともう少し複雑でいろんな人がいるんだけど、町工場の社長は他の解釈を全く許さない。町工場の社長となればそれは善人しかありえないのである。

これはいったいいかなる仕儀か?そこでわたしは考えてみた。実際の町工場の社長さんには申し訳ないけど、多くの日本人は町工場の社長に優越感を多少交えた共感を有しているのではないか? 町工場で連想される最初の単語は「下請け」である。辛い立場で文句も言えず言われたことをやるしかない。逆らいたくても逆らえない。情けなさをにじみ出しながらじっと我慢して耐える。得意技は土下座。あの半沢直樹のお父さんだって町工場の社長である。たまに戦う町工場の社長もいるけどそれだってまさに農民一揆連想させる必死の戦いである。そうなのだ。町工場の社長は、現代のお百姓さんなのである。さらにサラリーマンの中の辛い側面を具現化している存在でもある。

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WIKIPEDIAより

わたしが知る限り、スクリーンにおける元祖町工場の社長は、あの国民的映画「男はつらいよ」にでてくる太宰久雄演じる印刷所のタコ社長である。まさに日本の好人物。日本人が町工場の社長を好きになったのはひょっとして彼の功績によるものではないか?とわたしは思えるくらいである。そういう歴史もあって画面に町工場の社長がでてきようものなら、その瞬間からほとんどの視聴者は好意的な眼差しで見ること必定。制作者はその期待を裏切れない。裏切れば怒りを招きかねない。ということで100%町工場の社長が社長は善人とこの日本は決まったわけである。

ところがである、聞くところによると多くの町工場は後継者がおらずに難儀しているらしい。どんどん潰れているとも聞く。しかしこれだけ世間の好感を集める好人物像を我々はもっと大切にするべきではないか?日本の文化と呼べるのであるから。では具体的にどうするべきか? これがまったく思いつかない。何も面白いセリフがでてこない。さすがのハルトモ君もお手上げである。きっと遠い将来だが町工場そのものがドラマにでてこなくなるかもしれない。実際ないものはでてこない。とても残念だと思うけどこれが時代に流れというものか。だからこそ日本人の心に生きる好人物ということかもしれない。


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