人生は己の価値観とか美意識の実験実証の場

2021年01月17日
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人生の考え方
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最寄りの運動公園を走りました
凧揚げしてました
ジムでも走りますけどやはり地面を走るのは気持ちが良いです

リタイア後の投資
という記事を8年前に書いています
見事に書いてある通りになっていますな

ある読者からコメントをいただいて古い記事を読んで不整合がない一貫したブログというお言葉をいただきました。これは書いてあることが一貫しているというより、生き様が書いたとおりそのままにやっているということになります。実況中継のように15年前からこのブログの読者はいろんなわたしのイベントを見守ってこられたわけです。まあ呆れて見物しているというほうが適当な表現かもしれませんが、なんにせよ書いてある通りに生きている。仕事も投資も遊びもすべて自分のスタイル、揺らぐことはない。迷いとか悩みはないのです。もちろん細かなことまで全部言った通りじゃないかもしれない。気ままに気分で生きているんですから。それでも大きく狂わないのは自分の軸が確立しているからだと思います。

ただ20代後半から30代にかけては悩み迷い多き人間でしたね。というか同じことをやっていたんですけど、これでいいのかなって自信がなかった。似たようなことはしていたんです。だから幼馴染とか古い友人は変わらないなと言われる。でも中身はかなり揺れてましたね。いくら気を吐いたところで結果が伴わなきゃ負け惜しみにしかならない。何を言っても書いても説得力がない。結果がでることによって、ますます肚が据わりもうこれで生きていけば間違いないという自信が身につきました。そうなればこっちのものです。大きな決断もランチのメニューを決めるくらい簡単に決められるようになった。

わたしの場合は人生の経験からなにか学んで悟ったという受け身の人生観ではなく、自分が描いた人生観の仮説、すなわち価値観とか美意識を全人生をかけて実験実証をしているという気がします。わたしがそれこそ中学生高校生の頃に考えていた美意識とか価値観が今でもわたしのコアです。あの当時美しい格好いいと思ったものにわたしはなりたくてなったのです。というかそれ以上になってしまいました。多少のオーバーシュートは当然でしょうね。

わたしの同年代で、この歳になって人生とは、とか語る人も多くいます。まあ60年以上生きてきてなにか悟ったものはあるんでしょうけど、悟ってそれでどうするんです? 今更どうにも手遅れじゃないんでしょうか? あるいは受け入れ? そんな羽目になるくらいなら、仮に間違っていてもいいから、俺はこう生きたいのだ、いや生きるんだ、それが格好いいだろうと決めて、その人生観を壮大に実験してみたら、どれだけ人生がエキサイティングなものになるか? このブログの読者の多数派は50歳以上ですから、ちと手遅れが多いかもしれません。実験するにしても己の仮説を能動的に持っていない人も多いかもしれません。それでは話にならないのですが、もし覇気ある若者がいたら、わたしの言葉の意味を考えてみていただきたいと思います。ひとりくらいはいるでしょう。そういう人が。たった一人でも書く価値があるんだと思っています。


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