見えているその視界は歪んでいるかもしれない
2021年01月11日
投資家というのはわゆるお金が大好きでお金が欲しい人のわけです。それは誰でもお金が欲しいのでしょうけど投資をしない労働者よりその傾向が強いということです。そして投資家というのは世の中の流れに乗って儲けていく存在です。ですから世の中の流れの良し悪しについて、自分が儲かるなら良し、儲からないなら良くないという視点になりがちです。つまり自分が儲かる世の中が正しい世の中という考え方です。それはそうならざるを得ない。お金が大好きなんですから。でもそれって本当にそうでしょうか? それでいいのでしょうか? お金によって自分の視界が歪められていませんか? もっとも世の中の個人投資家のほとんどはそんなに心配する必要はないと思います。視界が歪むほど儲かりません。ただこの世で成功している投資家ほど視界が歪んでいるかもと、例えばネットでの発言などを見るにつけそうわたしは感じるのです。ちろん一人残らず歪んでいるとまでは言いません。あくまでも傾向を感じるということです。そして歪み方もひとそれぞれです。だから具体的にどうのと言いにくい。なんと言うか違和感があるということです。
お金に翻弄されたくない。貧乏な生い立の中でわたしはそう考えるようになりました。さほど好きでもないお金のために四苦八苦一喜一憂するのはとてもバカバカしいことだと考えています。だから要るだけさっさと儲けて金儲けから卒業したかったわけです。欲しい欲しいでは一生お金の呪縛から抜けられない。儲けるほどにもっと欲しがる投資家とは根本から考え方が異なるわけです。幸いなことに人からは軽々と見えるくらいに儲ける才覚を与えられたものですからそれが実現するという僥倖を得た。わたしは運というのは才覚をも含んでいると思います。恵まれた家庭に育てば金に困らないのもそれも運と言えます。わたしは自分で稼ぐ才能を与えられたかどこかで得た。それも運。もちろん運は生かさないといけないので運だけあれば良いとは言いません。ただ運だと思えば感謝の気持ちを持ちやすくなります。だから実力だなどと思うより運だと思ったほうが良いのです。運なら無限じゃなさそうだからどこかで止めようと考えやすいわけです。自分の力だと思えばもっともっとと自分の欲を育てる。そのあたりがいわゆるわたしの持つ違和感の理由かもしれません。
読者の方々も生きてきていろんな違和感をお感じになったことがあるのではないでしょうか? わたしは少年時代に感じたこの世への違和感をたぶん忘れずに生きてきました。今となってはそれはとても大切なことだったと思っています。それがあるからこそのわたしなのです。ほとんどの人が大人になるにつれて頭で損得を判断して、自分の違和感など心の片隅に追いやりいつのまにか消し去ってしまう。新たに生じる違和感も踏み潰してしまう。こうするのが良いのだと。もしもそのかけらがいくばくかでも心のどこかに残っているのなら、それを拾い集めて眺めてみるのも一興かもしれません。あまり反省しても手遅れってこともあるでしょう。懐かしく愛おしむってことですね。そうするとひょっとして違った視界が得られるかもしれません。どっちが歪んでいるかは知りませんけど。
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