ブログを書くのは誰のため、なんのため?2

2020年11月28日
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株式投資
例えば司馬遼太郎氏とか池波正太郎氏の小説を読むとします。中には歴史的な記述がたくさん載っているわけです。だから読んで歴史の勉強になるってことは間違いない。だからと言って読んだ後でも読みながらでも、勉強になるなあ、参考になったなあ、とか思いませんよね。読んでいて面白いから読み進むわけです。それと勉強になったなあだと、参考書と同じで読んで後に自分で何か考えるという時間がありません。それでは書いたものが広がりません。つまりなにか考えさせるものを書きたい訳です。不思議なことになにを考えてもらってもいいのです。書いたものが書いたもの以上に読者の中で育たないと長く読者を惹きつけられないとわたしはそう考えています。

株の話を書いても誰かの参考になったら嬉しいとかそんなこと思っておりません。だいたい読者に儲けて欲しいなんてそんなこと考えたこともないです。そもそもわたしにはできっこないと思っています。さてでは面白ければ良いからと言って、司馬遼太郎氏の歴史の記述が杜撰で良いのかと言うと、それはまただめなのです。脇役がしっかりとしてないといけない。わたしは自分で考えたことを自分の言葉で、経験に基づいてリアルに書きたい。面白ければ良いからと言って、そこだけ追い求めると結局長い間には支持されなくなると思います。底の浅さが見え隠れしてしまう。わたしにとっては株の話はそんな位置づけで書いています。勉強をしたいという気持ちではわたしのこの長い文章を毎日読む気にならないと思いますよ。勉強が好きな人そんなにいないでしょ?どうせたいして儲かりもしないのですし。

歴史小説であれば登場人物は皆死んでいますので、書いていることがおかしいぞとか間違っているぞとか抗議のメールもきませんが、山崎豊子氏のような作品だと話が違ってきます。書かれた側が不愉快に感じて抗議もしてきます。よく出る抗議は登場人物についてある一面しか書かれていないというものです。ある人物について全部書かれていない。だから事実を片手落ちで伝えているというわけです。山崎豊子氏は別に判決文を書いているわけではないのです。特定の個人団体を実名で糾弾をしているわけでもないのです。だとしたらそんなに多くの人が読まないでしょう。言うなら事実と虚構がないまぜになって、そこからあぶりでるような何かを書きたいのだとわたしはそう思って読んでいました。

もしもわたしが正しいことのみを伝えて誰も不愉快にしないということを目的にするならブログは書きません。極論しますと何を書いても不愉快に感じる人はいるんです。であるなら読んでも面白いと喜んでくれる読者のために書いた方が良いのです。たまにわたしの書いているものに的外れな批判をなされる方がいます。数年前に書いたものと今書いたものと言っていることが違うとかいう指摘です。それって小説家の違う作品の辻褄があってないだろうと抗議するようなものです。違っていていいのです。いろんなことを考えてその時々で思ったことを書いています。ただ儲けてもいないのに儲けたとか、そういう嘘は書きません。こんなにたくさん書いていると結局嘘はバレます。疑われた時点でアウトで読者は離れていくでしょう。別に本当のことを書きたいととか思っていません。事実を邪魔しない程度に脚色もあっていいのです。それは表現のうちでしょう。いろんなことをハルトモは語りますが、まあ主役ですからね。かなり勝手きままに言いたい放題です。ただ作者と同一ではありませんよ。
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