那須山ことわたしのロッキーマウンテン
高校生の頃ジョン・デンバーが好きでした
児童養護施設で児童指導員として勤務していた4年間、何回も教会の礼拝に子どもを連れて行った。施設がいわゆるミッション系だったのである。でも施設の子どもは教会なんて行きたくない。興味もない。その気持はよくわかる。わたしだって児童養護施設の子どもだった時に、礼拝をさせられたし賛美歌も歌わされたけどやりたいなんて思わなかった。まあそれでも行くのは仕方ない。子どもたちにはこう言った。世の中に出ればもっと不自由で自分がしたいことだけをして生きている人間はまずいない。その練習をしていると思えば良い。気に食わないといちいち怒るんじゃなくてそこでも楽しむのだと。賛美歌もいい歌が多い。特にクリスマスの燭火礼拝(キャンドルサービス)で使われる曲は名曲が多い。
さて教会に行くと、他の子どもが親に連れられてきている。私立のミッション系の学校の子どもたちである。身なりも施設の子とは段違い平行棒、立ち振舞もまたまったく違う。おとなしく大人に付き従い祈りを捧げる。一方施設の子は落ち着きがなく目はキョロキョロとしてやはりその場の荘厳な雰囲気にケチをつけるような浮いた存在になる。確かによろしくないとは思うけど、子どもたちの事情を考えると強く言う気にもならない。その好対照の構図の中で、良い子の親が、施設の子に蔑むような一瞥をくれるのをわたしは見逃さなかった。もちろん子どもを私立の良い学校に行かせるような親だから、あからさまにはやらない。だが私には見える。自分が子供の頃から受けてきた視線だし、むしろその中で人の観察眼も養った。
育ちがよく品の良さを身にまとって生きている人間を、どちらかと言うとわたしは今でも好きになれない。自分の力で品が良くなったわけでもないのに、悲しい事情を乗り越えてきた下品な人間を簡単に蔑んだりする傾向があるからだ。もちろんみんながみんなそうでもないし、そして問われれば蔑むなんてしてませんと否定するだろう。だが一瞬の瞳の動きは心根を欺けない。わたしはそこを見るのである。ずいぶんな英才教育を受けたものである。子どもの頃から人の瞳を見るようになった。自分を守るためである。なにせ油断のならない大人に囲まれて育ったのである。
年月が過ぎて今のわたしがある。わたしはブログでは自分の下品さを隠さないしむしろ強調する傾向がある。決して恥ずべきものだと思っていない。むしろ誇示している。お嬢ちゃんお坊ちゃんに蔑まさせてわたしは笑っているのである。そして同時にこれはわたしのような悲しい境遇を乗り越えて生きていく人たちへの応援歌でもある。わたしのブログを読んで眉をひそめるような人間など、謹んでざまあみろである。こっちはけっこうな暮らしをしておりますぞ。家族を大切にしそして自分ができるだけの恩返しもやっている。
11月を半ばを過ぎて12月も近い。街は幸せそうなクリスマスソングであふれかえる季節だ。恋人たちのクリスマスなんてマライアキャリーの歌が毎日FMから流れる。これはこれでいいんだけど、一方で私の心に響くクリスマソングはまた違う。例えばジョン・デンバーの曲、曲名は忘れけど、こんなさびだ。Please Daddy , don't get drunk this Christmas, I don't want seeing my Mama Cry、、、ジョンデンバーは知っていてもこの曲はマニアックかしら? よろしければ探して聞いてみてください。12月になると不思議に児童養護施設の思い出がこうやって蘇ります。え、まだ早いか、でも思い浮かんで書いたものは仕方ない。取っておかずにさっさと上げます。
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