ネットにおける匿名性のあり方について
2020年05月27日

OPPOA5 2020のカメラとてもいい
下手でも上手く撮れる
文章は下手だと下手なままだね
いろんな技術が考えられるんだろうけど、わたしはあまりに過度な匿名気分を抑制するべきだと思う。気分とつけたのは、実際は調べれば調べられるからである。ただ犯罪になりにくいので実態的に匿名になってしまっている。ひどい書き込みはたいてい書き捨てのハンドルネームである。最近は通りすがりというのは流行らないみたいだ。ちなみにわたしのブログでコメントするときに名前を入れないと、自動的に「負け組投資家」という名前が出るようになっている。一応95%の確率で当たっていると思う。テストだって答案用紙に名前を書かないとアウトでしょ。
FBがあまりに皆行儀がいいのは自分が特定されるからである。一方ブログでもあるいはTwitterとかでも、長年ひとつの名前で発信し続けている人間は信頼ができる。ある程度の特定ができるからだ。そして自分の発言が記録として残る。都合が悪いのか気分なのか知らないけど、簡単に自分のアカウントを消してまたやり直す人間の言うことは、どんな立派なことを書いていてもわたしは真に受けない。理由は明白だ。自分の過去の発言を消したい人間なんだから、これからも都合が悪くなれば消して消えると思う。そういう人間の発言がどの程度のレベルか推して知るべしである。たまに消さないで消える人間がいるけど、あれはもっと良くないと思う。悪口とかはゴミだからちゃんと片付けないと。
ということで、ネットで個人情報を晒す必要はないけども、使い捨てのハンドルネームで勝手に書けないように世の中がシステムを導入してもいいような気がする。ネット用のIDが共通になっているとか、それで閲覧したいときは、その人の発言書き込みが、ある一定の要件を満たせば誰でも閲覧できるとか、あまり詳しい技術論はできないけど、要はまるで出鱈目はできないようにしたら良いということである。思い出したけど、わたしは似たようなことを15年くらい前にこのブログで書いている。ひとつもネット社会はよくなってないってことかもしれない。
たぶんネットに残っている文字数で言ったら、ハルトモ君は相当の上位にいるはずだ。ずっと残っている。これだけ書いているので、悪口を言われることはあるけど、まず面と向かって言われることはない。わたしに面と向かって言うのは大変みたいだ。非常に反論しづらいと言われたことがある。どこかで悪口をいうのは勝手だけど、以前たまたま目にした傑作な悪口は、「ハルトモは会社で成功して株で儲けて家族と友人だけが支えの寂しい人間で、ネットでは誰も相手にしない。」とかでさすがに笑った。それで十分です。わたしはリアルな人間関係が良好なんで、知らない人間とネットで親密にやりとりなんてしたくないです。でも普通に知らない人と接するように接します。
出会いは大切で、それでネット経由で知り合いになって直接のお付き合いが続いているかたは、けっこういますんでね。会ったことないけど読者もやたら長い人が多いみたいです。特段親密なやりとりはないけど、ときどきボソボソとか、あとまったく書かない人も多いです、でも読んでくれればそれでわたしは十分です。作家というのは批判されてもいいから本を読んでもらうと嬉しいみたいです。わたしも似てます。この野郎と思いながら毎日読んでくれる人はわたしのファンです。それにしても真面目な話題がなんだか自分の自慢話になるってのはどういう理屈だ? とにかくアップしよう。
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