人を見下す、人から見下される

2019年11月05日
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人生の考え方


よく、「あいつは人を見下している」とか「見下された」とか言う人がいます。まあ怒りの感情ですかね? じゃあその相手に「あなたはなぜ人を見下すのですか?」って聞けばたぶんほとんどの人が「見下しているつもりはありません。」って答えると思いますね。まあ確信的かつ意図的にやる人もいるんでしょうけど、その場合は敵意に近い。つまり見下す側?と見下された側?には真逆くらいのギャップがあるわけです。

少し視点を変えてAさんがBさんを見下すとBさんが言っているのを見て、他の人はどう思うか?これはきっと意見が分かれるでしょうね。どっちかに100%は片方が敵意を持つか、あるいは片方がパラノイアを持つかで、普通は、わたしも見下していると思うって言う人もいれば、わたしは見下しているとは思わないって人に分かれると思います。Bさんに共感する人は見下していると感じるってことでしょう。

つまり人を見下すという形で見下す人を主語にしていても、実はそれを見ている人の主観で見下しているかいないかが決まるということです。ということはです。普段から「あの人は人を見下している」とか「自分は見下された」と感じることが多い人の実際の暮らし向きとか精神状態というのはどういうものなんだろう?とか考えてみたくなる。なぜかと言うと、そう考える主体の見下された方に解があるかもしれないと思うからです。だってそう考えているのは自分なんですから。

例えばAさんがBさんに何か言う、Bさんは不本意にもその通りにしないといけない。不満や鬱憤がつのる。あるいは言う通りにしないといけないまで行かなくても、相手に逆らえないとか、気に食わない相手が上だと認めざるを得ないとか、そういう時に見下されたという気持ちがおきるんじゃないかなと。逆にAさんが何を言おうがBさんは関係ないと思えば、それは言い返せばいいし、言い返さなくても言わせておけとかバカな奴だとかで終わるんじゃないかしら?見下されたと怒る必要はない気がする。そして毎日毎日不平不満がたまる生活を繰り返しているとそれがその人の性質になってしまうかもしれない。

つまり普段から人間関係に置いて従的な立場にあって不平不満がたまっていると、人間は人から見下されたと感じやすくなるんじゃないかって仮説です。もしそうだとすれば、どうやって自分自身が自由に感じるかを考えたほうが良いかもしれない。わたしの場合は人が何を言おうが見下しているな、とか、特に怒りを感じることはないです。まあ言い方が間違っているなとか、変な奴だなとか、まあ言わせておけとか、それくらいにしか感じない。

結局自分自身が幸せに生きるってことが大切ですから、自分が幸せになろうって主体は自分にある。そして自分がどう思うか、どう考えるかはまさに自分次第なんで、まず自分の考え方を見直すこと、それが難しければ状況を自ら変えていくってことだと思いますけどね。まあ見下す人がいると言っても、その人を変えることはできないでしょうから、自分を変えてみてはどうですか?って話です。

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ハルトモ
Posted by ハルトモ
自由人ハルトモ。那須とさいたまを毎週往復するリゾート&リタイアライフ、そして旅、投資ネタもありのブログです。
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