幸せを感じながら生きるコツ

2019年10月02日
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人生の考え方
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京都に一人旅をすることにした
サラリーマン時代にお世話になった先輩が
関西に遊びに来いとなんども声をかけてくれる
どっちかが行かないと久闊を叙せない
行ってみるかと言う気になった

合わせて京都の相場師を訪ねてみたい
40年近く前わたしが閉塞感を感じる若きサラリーマンであったときに
そうか!株という手があるかとサジェスチョンしてくれた方である
わたしは株に興味を持ったのがその時
だがすぐに勝負などしなった
証券会社に口座を開いたのは20年の後の話である
そういうところが私らしい
パッと動くかと思えば、石のようぬ動かない、ただ忘れはしない

明智光秀ゆかりの地と言えば坂本城跡くらいしか行っていない
今回は亀山、長岡京、そして山崎など光秀ゆかりの地も訪ねたい

ということで懐かしい先輩と老相場師と光秀とお楽しみ満載の旅になる

さて幸せを感じながら生きるコツという題を書いてみた。幸せに生きるじゃなくて幸せを感じながら生きるである。そこの差は意識してみたい。コツと言うならこれはいろいろあるんだと思うけど、そのうちの一つと言う程度の話である。

なんだか凄く怒っている人がいる。怒る相手がいるようだ。それでどうして欲しいのかと聞くと、謝って欲しいと言う。謝罪を求める。さてそれで相手が謝罪したら、その人は幸せを感じる? 形だけ謝罪されてああ幸せだなあって思うかな? 謝罪しろと言われてする謝罪が心の奥底から出たものではないことくらい誰でもわかる。

そもそも人に何かを求めてかなえられるかどうかで自分は幸せになるという構図がわたしに言わせれば変である。自分の幸せが他人に委ねられてしまう。謝罪なんか求めないことである。悪いと思えば自分で謝罪してくるだろう。むしろその経緯を自分なりに教訓として今後に生かすことである。であるならむしろ感謝さえできる。感謝は自分の意思でそして自分の心の中で行う作業である。表現はしなくても良い。誰からも強制されない。幸せを感じるためにはそう言う他者から影響を受けない自発的な作業を増やすことだとわたしは思っている。

さて謝罪されたらどうする? そこでまたおかしな感覚が芽生えてくる。人を許す許さないという傲慢な心境です。人は人を許すものじゃない、それは神の仕業である、とわたしなどは思っています。許された相手はどうなるのですか? 許されて喜ぶ?感謝する? 許すことでそこに他者の行動への要求があるでしょう。許したのに、相手が喜ぶ仕草でもなくしれっとしてたら、また怒りが再発しませんか?結局どこまでも他者に振り回されてしまうのです。

許すのではなく謝罪を受け入れればよいのです。わかりましたと。受け入れるのはこれは他者への要求じゃありません。自分でできます。そしてそこで事が終われば多少の仕切り直しの気持ちになります。教訓もあるでしょう。次に活かせます。そういうことがあったとしっかり覚えておけばよいのです。つまり記憶に留める。逆に怒りとか恨みとかこういう感情を心に留めますとね、感情ばかりが先行して記憶がお留守になって、なんだか怒りとか恨みが一人歩きしてしまう。もう事実なんか感情の後付けになってしまう。そうなると相手が何をしても頭にくるという馬鹿げたサイクルに入ります。相手が笑っているだけで頭に来る。おかしいでしょ。そういう人が幸せを感じながら生きるのは難しいでしょう。自分の幸せが他者次第だからです。自分で幸せを感じるようにする。これは考える価値があることだとわたしは思います。



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