できそこない無頼漢

2019年08月12日
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日々の雑感ーリタイアライフ
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生い立ちが生い立ちだからか、わたしはかなり反抗的で社会の秩序を否定する子どもだった。人が決めたルールに従うのがすでにその時点で面白くない。権威を振りかざしたりまたひれ伏すというのも大嫌い。振りかざしたりひれ伏したり、そんな意識しないで皆自然にやるけど私にはとても不自然なこと。普通にできない。先生というだけでもう威張っているように見えた。先生が入ってきて起立して礼するところから面白くない。なんでそんんことしなきゃいけないって思ってた。

勉強そのものは嫌いじゃなかった。ただ人から教わりたくない。それと本が好き。ずっと教科書とか参考書とか読んでいた。中学も高校も授業中は先生の話はろくに聞かない。みんな塾とか予備校とか行っていたけど、うちは貧乏で行けない。それがちょうどいいくらいに思っていた。そのわりに成績はよかった。だから余計まじめに授業を受けたくなかった。

一方で情緒の安定はいつもAで喧嘩なんかしない。先生に面と向かって反抗もしない。でも今でも覚えている。中学の時に担当の小沢先生が私を個室に呼び出して、それで聞かれた。「お前は一体何が気にくわないのだ。」わたしはそう聞かれて驚いた。自分では普通にしているつもりだったけどやはり外に出てたんだね。後年会社を辞めて児童養護施設に行ってわたしと同じような境遇の子を目にして手に取るように理解できた。

すべてが気に食わない。誰も信頼しない。先生がどうのこうのじゃないのね。先生だと言うだけで気に食わない。その時にどう応答したかよく覚えていない。だが先生の表情はよく覚えている。ほとほと扱いずらいという顔であった。

そんな子がいろいろあって高校を出て浪人して遊び呆けて、それでその後、家出して、それで練馬の新聞店に転がり込んだ。400円しか持ってなかった。身分証明書もなにもないけど簡単に雇ってくれた。そこに従業員で伴さんって人がいた。伴さんてのは良い人だけど悪い人だった。歳は当時で50なかば、だから今生きていれば95歳くらいか? 生きているわけない。当時から随分体が悪かった。小便が止まらないとか言ってたからね。

伴さんはよく奢ってくれたけど、その代わりと言うわけじゃないけど、わたしに頼みごとをしてきた。1日300軒くらい新聞を配達するんだけど、何軒かここに入れてくれと頼むのである。だんだん増えて10軒くらいになったかな?どうして入れなきゃいけないのかわたしは聞かなかった。でも想像はできる。新聞の勧誘をして成約すると報奨金が出るんだけど、その報奨金欲しさにお客に半年サービスしますとか言って注文とっちゃうとか、あるいは注文とるためにお試しするとか、はたまた自分で領収書を作って新聞代もらっちゃうとか。言うなれば悪いことである。

でも伴さんはいい人だったね。当時は新聞店の従業員に給料を渡す時に、未回収の新聞の領収書を入れる店主もいた。意味わかるかな?給料の代わりに自分でお客からお金をもらってこいというわけだ。回収できないのはお前が悪いというわけだ。ということで雇う方にもおかしいのがたくさんいたからそれに対抗するために伴さんが身につけた術だったんだろうね。どっちもどっちであるが、どちらかと言うとわたしは伴さんに好意的であった。店主という権威に対抗していたからだ。

その伴さんがホッピーを飲みながら言うのね、「ハルトモ、お前こんなとこにいつまでいちゃだめだぞ」でも続けて言っていた。「どうしてもこの世界にいるってなら、俺が仕込んでやる。」

できそこない無頼漢って伴さんのこと?と思われる読者もいるだろうけど、違う。伴さんは本物の無頼漢である。伴さんは他にエピソードが多い。ずいぶんと喧嘩もやっていた。

このまま書いていくときりがないので話を飛ばそう。わたしのことならこのブログを読むとどこかに書いてある。探して読んだらいい。

わたしは大学を働きながら卒業、社会人になっていた。それで大阪支店に配属された。大阪に森ノ宮という駅があって、そこに競輪新聞の販売店じゃなくて印刷所があった。その印刷所はいくつかの競輪新聞の印刷を一手に引き受けていてそれで翌日の競輪新聞が全部手に入った。当時はインターネットなんてないから、明日岸和田に行こうかはたまた西宮競輪に行こうか、これは朝では検討が間に合わない。
それで夜のうちに手に入れて、それで検討するわけだ。下手すりゃ朝方までかかって検討。寝不足は問題にならない。行ってきまーすと朝から出かけて午前中車の中で寝てればいい。

仕事は新規開拓で病院回りをしていた。関西の病院ならどこでも売りに行った。ただこっちは競輪が本業のつもりだから、行動スケジュールが競輪中心になる。和歌山競輪があるときは和歌山出張、大津競輪なら滋賀出張てなもんである。今にして思えばわたしにはいい仕事だった。わたしは元気で覇気があるからと新規事業開拓をやらされたけど、普通は担当を持って売り上げも最初からある。そう言う仕事の方がやりやすいという人が多い。わたしは違ったのね。前例がない方がやりやすい。

当時は給料より競輪で稼いだ金の方が多いなんて月もあった。でもわたしがとんでもなくサボっているてことを知ってる人はいなかったと思う。理由は割と売るのである。人が100軒回って3つ注文を取るとしたら、わたしは20軒も回れば3つ注文を取ってしまう。天才ギャンブラーじゃなくて天才営業マンだったんだね。その天才営業マンは外資系に転職してそこがつぶれかかった事業部で好きに暴れて才能を花開かすことになる。真面目に100軒回って、それで人の数倍売れば多少給料は上がるかもしれないけど、知れているし、だいたい見ていると実力主義の会社じゃなくてお気に入りだけ出世させる会社だった。わたしはごますりなんかできないしそんな会社を儲けさせるメリットがない。

ちなみに天才営業マンって言うけど、何が天才かと言うと、トークで買う気がない人間に買わせるのが天才じゃない。100軒回ると言ったけど、実際は注文を取るまでに何回か行かなきゃいけない。いろんなプロセスを踏んで手間がかかる。わたしは買わない客を見抜く力があった。だからなんども通って無駄足というのが少ない。もちろん無駄足は必ずある。買う客を見抜くというのはできない。でも買わない客がわかれば手間は大幅に減る。その減った手間を使って競輪をしていたわけである。この術は子供の頃から大人の嘘を見抜くことでたぶん養われた。人生何が幸いするかわからない。

当時はさすらいのギャンブラーに憧れていた。いつか会社を辞めて競輪専業で日本全国の競輪場を回る。いわゆる旅打ちで暮らしたいなんて割と本気で考えていた。そういう生き方が格好いいと思っていた。事実競輪で稼いでいたしね。競輪で稼げる人間なんて株式相場の10分の1いや100分の一もいないと思う。株は簡単よ。競輪に比べればね。

さてわたしのブログの読者なら、今のわたしがその後どうなって今どんな暮らしをしているか?おわかりだと思う。わたしは憧れた無頼漢にはなれなかった。ただわたしの原始心象風景は無頼漢=自由人であった。その自由人に全く違うルートを取ってそれで今のわたしがある。まあ競輪だろうがなんだろうが本当の無頼漢をしていたら今のような暮らしはあり得ないだろう。だが自分があれだけ格好いいと思っていた無頼漢から見ればわたしはできそこないである。

麻雀放浪記に女衒の達という兄いが出てくる。本業は博打じゃない。女衒が本業。女衒を知らないなら調べればよいが、ぜげんと読む。その女衒の達は勝負事も滅法強い。出目徳やドサ健とも死闘を繰り広げるけど、最後は本業の博打ちに勝てない。それは女衒という本業があるからである。と阿佐田哲也は言う。わたしも同意する。出目徳やドサ健が持つ破滅的な匂いがないのが達。無頼漢というのは常に破滅的な匂いを背中に漂わせていなければそれは無頼漢とは呼ばないのであろう。その後の達の消息は小説に出ないが、作者がどう書くかは別として登場人物の中では一番人並みの幸せに近い人物であったと思う。
まさにできそこない無頼漢=女衒の達=そしてハルトモというイメージである。でもやはり出目徳、ドサ健に憧れるなあ、できそこない無頼漢としては。

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ハルトモ
Posted by ハルトモ
自由人ハルトモ。那須とさいたまを毎週往復するリゾート&リタイアライフ、そして旅、投資ネタもありのブログです。
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2019/08/12 (Mon) 18:48

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