漫才を聞いて笑っても自分が面白い人間になるわけではない
2019年07月27日
ブログに表示する写真を選ぶときにテンプレート全体の色調があっていないと画面が落ち着かないということがわかってきた。記事自体も本当は気を使いたいくらいだけど、それだと選ぶ余地がなくなってしまう。それとトップ画面の写真は落ち着いている方が良いと思う。それとやはりハルトモらしい写真が良い。(どれがハルトモらしいかよくわからんけど)
この写真は南ドイツの田舎町、たぶんローテンブルグかそのそばでそれもメインを外れた道である。カミさんか娘が何気なく撮ったもの。この写真で案外歩道というものが大切である。下の道を切ってしまうとまた雰囲気が変わる。道があることでゆったりとこの道を歩いてきて、そして歩いて行くんだなという時間の流れが見えてくる。(実はそれでも下を切ったんだけど。)
ハルトモ君の人生で言うなら満足感に満ちた過去の道があり、そして悠然と期待に満ちた未来を見る。ブログのヘッダーだと形状の関係で城を入れると体が全部入らないので城はカットされているが実際本人はあの城に向かうとなく悠然と目指しているけど、気が変わってひょいと曲がるかもしれない。そんな背中である。(と自分で思う。)
ブログを移転して記事の下に関連記事が表示できるようになった。ランダムで表示される。(記事ごとにいちいち私の長いプロフィールが出るがこれは明らかに邪魔で消そうと思うが意外と難しいがこれはそのうちに)。それで過去記事へのアクセスがスムースになったか、ページビューが増えている。ページビューを増やすテクニックもあるのかもしれないけど、やはりまた読みたいと思えるコンテンツなら自然と人はクリックしてくれるだろう。
ただ日記的に毎日読むのであれば適当な文章でもそれなりに読める。ハルトモの近況がわかる。だが過去記事になると、自分なりに真面目に書いている文章とそうでない文章は混じっており、当たり外れがあるだろうなとは思うが、そこは仕方ない。読み手によって受けとり方も違うだろう。こっちとしては書いた時点で終わりである。
よくブログで自分の言いたいことがなかなか伝わらないとか言われる人がいる。これはブログにかかわらず言語を使ってコミュニケーションする以上はどんな表現形式でもあり得ること。文章を書かせるとその人の程度が知れるというのはある。どんなに口達者でもそれをそのままテキストに起こすとあれ?て人はけっこういる。文章ではわりと大きな差がでるものだ。その上でだけどその人の書いた文章はその人の言いたいこと以上でも以下でもないんである。その人そのままである。もちろん取り繕うこともできるがどこかに出るもんだしあまり取り繕っていると長くたくさん書けないだろう。
自分でたまに過去記事を読んで笑ってしまうこともある。自分で書いて自分で笑っているんだから、これは自給自足というか自家発電と言うかはたまた自慰と言うか、まあ人も読んで笑ってだろうなあとは思う。
いろいろ考える、いつも考えている。それを文章にするのは難しくない。考える次は行動である。考えるというのは行動するためにある。振り返り整理するにしてもその先の行動があるからこその考えるという、まあ言うならこれも行動の一部である。行動がないとなると考える意味は無くなるとは言わないがぐっと減る。行動が伴うからきっとわたしのブログが面白い。
わたしのブログを読んで笑うのも結構だが、自分の行動というのも、これは書くとか話すも含めてだけど、よく考えてリンクさせるというのはやる価値がきっとあると思いますよ。自分の人生ですからね。
いくら面白い落語や漫才を聞いて笑っても決して自分自身が面白い人間になるわけじゃないからね。
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