痛快に生きる3
2019年05月25日
何が痛快かと言えば、それは誰もがダメだと思われる中あれよあれよとうまくやりきってしまうことである。成功の大きさはさほど問題にならない。むしろ成功は庶民的な方が好ましいくらい。つまり結果よりもプロセスじゃないかしら。実際結果が大きいほど満足度が高いというのはわたしの実感と乖離する。栄達しても別に幸せではない。
美味いものを食べると幸せだろうか? まあ不味いものは食べたくないけど、美味ければ美味いほど幸せなはずはないよね。金があればあるだけ幸せでないのと同じだ。わたしが食べているものは幸せのメーターを振り切るには十分な気がする。カミさんの手料理はどんな一流料亭の料理よりわたしには満足度が高い。
わたしが何を言いたいのかというと、相場で稼ぎたいとただ思って漠然と稼げば稼ぐほど良いだろうと決めつけるなということである。間尺に合う自分なりの快適な暮らし向きは何か落ち着いて考えてみる価値はある。そのしたい暮らし向きの分だけ稼げばよいではないか? 分を超えるとかえって災いが来るかもしれないし、そのしたい暮らし向きもほどほどにしとけと言う気はする。
間違いないのは稼げば稼ぐほど幸せではないということ。金があればあるほど幸せか?美味いものを食えば食うほど幸せか?答えが明確なら相場も同じ。相場で稼げば稼ぐほど幸せなはずはない。もし稼ぎすぎたから浪費するのなら、それは美味いのを食い切れず残すか吐くようなものだと、わたしは思う。己をの分を知るということである。ただその分とは世俗的なヒエラルヒーとは無関係である。自身内面の人間力と言っていいかもしれない。
どう思うかはその人次第である。わたしの言い草を聴いて十分贅沢すぎると思う人もいるだろう。それくらいわたしはけっこうな暮らしをしている。一方金があるならもっと使えと思う人もいるかもしれない。そういう人は自分で使えばよろしい。人はどうでもよいことである。
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