痛快に生きる2
2019年05月25日
前の話の続きなんだけど、自分自身として痛快に生きればよいわけで他人の視線に阿る(読めますか?)必要はまったくないのだけど、ただそれでも結果として自分が格好いいなと思う程度に共感してくれる人間がいるからこそ痛快という言葉が引き立つという面はある。これはわたしの幸福論と同じ構造である。良いものなら共感する人間もそれなりにいるはずだと言うこと。
その意味でわたしが社会的な地位とかあるいは収入とか捨ててしまったというのは、わたしは自分ではすっとできたけど、できない人間が圧倒的に多いことは知っていて、そのぶん余計に自分では真似できんでしょって気分はあるしそれで共感を呼んでいることは事実そう言われるから自覚している。
会社を54歳で辞めたけど、今でも聞かれるのは早期退職ですか? 早期退職ならいろいろ割増もつくんだけど、わたしの場合はただ辞めますと言って辞めただけ。何の割増もない。まさしく自己都合退職。投資だってずいぶんと潔く辞めてしまった。やればまだまだ稼げそう? それはわからないけどいらない金を頑張って稼ごうとするのはわたしのスタイルじゃない。あまり強欲でないというのはこれは自分も人も頷ける格好よさにつながると思う。
わたしの場合、獲得するより捨てるほうにわたしらしさが出ているって気はする。稼ぐ方はまあ適当に稼いでおけばそれで良い。このブログを読んで真似したいという人間がほとんどいなのは知っているけど、でも参考になるって読んでいる人はけっこういるらしくて、それで稼ぐ方は明日やろうと思ってもできないだろうけど、捨てる方は明日にでもできるんだから真似してみようなんて人間いないのかね?
ハルトモは稼いだからなんとでも言えるんだって言われるかもしれないけど、そこはちと違う。わたしは若い頃2度も相続放棄している。揉めればいくらかもらえたけど自分で稼ぐつもりだったから要らないと放棄した。会社での昇進を放棄したこともある。得るよりむしろ捨てるほうが先にくるくらいだと思う。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれですよ。まあ実際は捨てないんだけど。潜るだけである。
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