お葬式
2019年03月28日
静岡の叔父のお葬式に参列した。故人とは付き合いはなかったが、せっかく従兄弟から連絡をいただいたので行くことにした。久々に従兄弟に会うのも良い。故人の思い出と言うとまだ私が小学低学年の時に祖父母の屋敷(家ではないお屋敷)に預けられていて、そこで庭に針が落ちていたようでその針で祖母が手を怪我した。そこで針を持ち出したのは、居候のハルトモに決まっていると私が怒られた。私は何かと疑いを持たせるキャラである。
そのちょっと前に祖父の書斎から祖父が世界一周の旅に出て(1$=360円の時代だから凄いね)そこで集めてきた各国のコインが綺麗にアルバムに入っていたのに、わたしが外に持ち出しておはじきにして遊んでいてこっぴどく怒られた。悪さするのは私に決まっているという話になる。だがその針だけはわたしではなくて、みんなで私だと決めつけるので、わたしが反抗したら、故人である叔父が、この野郎と胸ぐらを掴んでひどく脅した。それがわたしに残る数少ない叔父の思い出の一つである。
ただ故人の名誉のために言うと楽しい思い出があって、どういうわけか、親父と叔父とわたしと3人で横断歩道を渡る時に、親父と叔父でわたしを両脇から持ち上げて運んでくれたことがある。それがとても快感でわたしは大喜びした、なんて思い出がある。やはり故人の葬式に赴くということでそれなりに昔のことをなんか思い出すのだから不思議なものである。思い出というより光景が写真のように脳裏に残っている。
わたしの親父方の親戚はかなり裕福で、本来は親父が跡取りだった会社は倒産したものの、存続した会社もあって、それは長女の旦那が継いで、結局長年の功績で勲章まで貰っている。(その会社も今は細々のようだが)親父がまともならたぶん勲章もらったんだろうけどまああり得ないな。親族会議でダメ出しされて継げないくらいだった親父だ。その親父のおかげで親戚の中ではわたし一人だけ生い立ちが過酷で、児童養護施設に行った。一番酷い目にあったわたしだけど、ひさびさに会って話すと、どうやらわたしが一番結構な暮らしをしているようだ。いくら親に力があっても一番頼りになるのは本人ということだろうか。
わたしは今となるとわたしの生い立ちが気に入っている。よく人と違うとか変わっているとか言うけど、そういう人でも普通に育っている人の方が多い。わたしの生い立ちは変わっていると言うよりかなり強烈だと思う。わたしが普通でないのは自分で意図したわけでなくて、そうならざるを得なかったということだと思う。なにせ自分で考えてまともな事をしているつもりなのに人の怒りや顰蹙を買うんだから。
静岡と言っても実は沼津なんだけど、わたしの最寄駅から熱海までグリーン車で行った。熱海から沼津までは3駅ですぐだ。快速のグリーン車に乗ると2時間で着く。新幹線なら東京から熱海は早いけど東京まで立って行かねばならない。それで30分くらいしか変わらない。直通で座って行った方が快適である。かつ安い。沼津からお寺までタクシーで2000円くらいだそうだ。だが地図で見るとお寺の前にバス停がある。ネットで調べると頃合いの良いバスがあって300円。どうせ時間があるのだとバスにした。ということで何気に4000円くらい節約した。行かなかったバイト代より節約が大きいので要は働いたということだ。
さて葬式の話である。わたし自身お葬式は何度かやっているし、自分なりに調べているけど、ご遺体は亡くなったそのままだと、毎日見ている遺族は気づかないけど、久々に会った弔問客は元気な時の記憶しかないから、随分とやつれて辛かったんだろうなと勝手な想像をする。これからどうせ焼くのだからと言わずに綺麗にしてあげたいとわたしは思う。それでご遺体の処理として相模典礼なんかは化学処理をするけど、これも実際見たけどけっこう脂ぎった感じで、湯灌の方が自然で良いと思う。湯灌というのはご遺体の入浴とそしてプロの化粧である。湯灌も粛然と遺族の前で送り人が取り行ってくれてとても良い雰囲気でそして故人が自然で安らかな感じなる。弔問客ら見てまったく違和感がない。10万円以上かかるけど、わたしはやった方が良いと思った。
茂子さんはお花が大好きだった。だから祭壇にはついかでお花を追加してそしてお棺にはあふれんばかりの花で満たした。これも生前茂子さんに約束していたことだ。お坊さんも静岡から茂子さんの知っている住職を呼んだ。遠方の場合同じ宗派の代理でやってもらい、49日、納骨で菩提寺の住職というパターンも多いけど、わたしは金がかかても良いと静岡からお坊さん二人に来てもらった。十数万円余分に払ったけど茂子さんに約束したことだ。茂子さんは住職に葬式で会うのを楽しみにしていたのだ。
その他諸々、随分と立派にやったけど、もちろん弔問客はろくにこない。でも親族だけでとても楽しく華やかな式となった。妙な倹約をするわたしだけど、こういうところは随分と気前よく払う。まあイーオンのおそうしきで節約してその分オプションで張り込んだというところだ。
さてお金は別として、施主として大切な仕事は弔問客への挨拶である。これをありきたりの原稿を読み上げるなどわたしには考えられない。わたしは父の時も茂子さんの時も原稿など持たずに自分なりに思いを自分の言葉で語った。出来の良し悪し別にそうすべきだと思っている。
わたしは人は自分の言葉をもっと大切にすべきだと思っている。自分で考えて自分の言葉で自分の思うところを話す。それは葬式でも会社の会議でもそしてこんなブログでも変わらない。そしてそれだけ大切にした言葉であるからこそ、その言葉を行動に移す。これができる人は自分なりに納得できる人生を歩むと思う。言葉を大切にしないならきっと行動もそれなりになる。その結果後悔するなら何をおか言わんやである。
帰りも往路と同じくグリーン車で最寄り駅まで直通。いろいろ思うところを文章にする。考えながら思うところをそのまま打つとこれくらいのだらだらした駄文にはなる。でも書くだけたいしたもんだ。だからなんだと言われるだろうが、遊びで忙しくてこんなブログに時間なんぞかけていられないのである。
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