読むことと書くことと

2018年09月04日
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人生の考え方
まずゴルフの話ね。

夏場のラフとかグリーン周りは芝がきつくてなかなか難しい。そういう状況で安定して80台のそれも前半が中心に出るということはこれはかつてない安定感だと自分で思う。昔は簡単にそれも河川敷で90を打っていた。良いスコアも出るけど叩くことも多かったが、今の私はだいたいそれなりのスコアで回ってくる。

平均が84くらいだと思う。この3ヶ月で40ラウンドくらいやって、90以上打ったのは一回、それから89と88も一回づつ。一方70台は二回ある。それ以外の35ラウンドは81から87の間に収まっている。もっと言うと81と87も少ない。大方のラウンドが82から86である。

70台が少ないが6月から8月というラフがキツイ時期ということを考えるとこれは10月11月は相当スコア的には期待できるかもしれない。栃木のコースでそれくらいだからホームコースでは70台連発と行きたいものである。

言葉とかあるいは文字とか、これは一体何のためにあるのかと言うと、これは何かを人に伝えたいから言葉が生まれんたんだと直感的かつ確信的にそう思う。その後に人の言っていることも聞いてみたいという欲求も生まれてくる。所謂双方向のコミュニケーションである。でも出発点はまず何にかを伝えることだろう。そう考えると文章を読むと書くでは、実は書くが主体であるべきだ。ただ何かを伝えるべく書くためにはそれなりにいろんな文章を読んでいないと上手に伝わらないのでそこで読むという意味はある。

読むことそのものが楽しいとかいうこともある。大抵書くより読む方が楽しいし楽である。また読むことでいろんな考え方やあるいは事実か想像でも、それ触れて自分で考えるという良さもある。ただそれが最後書くという行為に帰納するのが読むと書くの成り立ちからみて自然じゃないかなって思う。もちろん読むだけ読んで暇つぶしというのも悪くはないがそれを含めて、なんか出てくるだろうって気がするってことである。

そう考えると、現代人は恐ろしく読むと書くのバランスが悪いのではないか? 読書をたくさんする人でもたくさん文章を書いていないって人が多い。LINEなんかは文章のうちに入らないだろう。また仕事での文章も書かないよりはましだが自分で書いている文章とは言い難い面もある。昔は手紙という素晴らしい文化があって、電話もインターネットもなく、旅の心持ちとか思い出とか書き送るには旅先からの絵葉書しかない時代もあって、その時は日本人も皆たくさん文章を書いていたはずだと思う。愛の告白なんてのは文章が主流だった時代もある。それが現代人はまともな文脈を持つ文章をろくに書かない。それが何か文化的なあるいは知的な後退に結びつく予感もするし、そもそも何か言いたいことはないのか?て言う自発的自己発信が脆弱なことでやはり人間の社会的な活動の不活発さに繋がっている感覚も満更外れていない気もする。

何を言いたいかというと、これは当たり前の話だが上に書いたことである。十数行あなたが読んだ通りである。もちろんどう理解するかはかなりの部分読み手の自由だが一応私が書いたことから理解は始まるので全く無関係でもなかろう。それを要は、とか、結論を言うととか、簡単に丸めようというのは効率的言う名の元の手抜きであると私は思う。結論だとけ聞けばいいと言う読者のニーズはあることはあるが、結論だけ言えば良いと安易に考えるのはこれは多分言葉の成り立ちにそぐわない行為である。文章の説得力の殆どは結論にはないのであるから。
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