わたしも普通の勤め人であればもうじき定年である。以前はずっと家にいてボケーとして家庭の邪魔者になってしまうのが定年後のよろしくないパターンとされていたけど、今やボケーとできる人はかなり幸せなほうではないだろうか?
友人知人を見渡して60歳で仕事を辞めても生活が不安なく成り立つという人間はそんないない。ずっと働き続けないといけないって人の方が多いのである。
だからボケーとできれば幸せなんだけど、それでもただボケーとするのじゃなくてアクティブにまあ言うならハルトモ君のように暮らしたいと思うなら、どうすべきか?
これは同年輩に言っては悪いがこの歳になってから考えてもたぶん遅すぎる。
定年後気力が抜けたようになって体も動かない理由は、一言で言って、働きすぎたのである。体力も気力も仕事に吸い取られてしまって残っていない。もちろん体力も気力も再生産は効くのであるがその再生産のプロセスも失われしまっている。車でも物でもなんでもそうだ。使えば使うほどへたるに決まっている。
つまり逆に言うなら、自分自身をへたらせないように上手に使うことを現役世代は考えないといけない。たくさん休んでたくさん遊ぶのもリフレッシュという意味で良いけど、人間をへたらせる一番の要因は嫌なこと不本意なことをたくさん長くやることである。これさえ避ければなんとかなる。そうでない人は仕事というのはそういうもんだと思い込んでいるから始末が悪い。それで定年になって、さてと考えても遅いというわけだ。
シゲちゃんの静岡の家は結局、お隣の方に差し上げることにした。土地と建物丸ごと差し上げる。(ほぼ登記の実費だけいただく)鉄筋コンクリートなんで、まだ雨露はしのげる。お隣りはさしあたって犬小屋につかうそうだ。ずいぶん大きな犬小屋だ。どこかで折を見て解体したいそうだががいつかはわからないみたいだ。お隣の方なら長い目でみれば生かすことが可能であろう。うちがそのまま置いといても近所迷惑だ。うちは困るわけではないし手間暇かからなくてよかったくらいだ。
お隣は家を10年くらい前に新築してその時にシゲちゃんの家を譲ってくれないかと頼んだが、シゲちゃんが高く言ったので買わずに裏の土地を買ったそうだ。だから変わった作りの家になっている。シゲちゃんの家を囲む感じ。
ただこれは仕方ない。シゲちゃんだって売ってもどこかに住まないといけない。中古のマンションでも買えるくらいの金でももらわないと売るに売れない。その後認知症で埼玉に来ることになったけど、それは結果論である。誰も先のことはわからない。
人間は損とか得とか考えるといろんな行動をとることになる。上に書いたように自分自身をへたらせる。身内で相続争いなんてのも人間をへたらせるんだろうね。
自分では使わないものだから、使ってくれる人に差し上げる。わたしはそれでいいように思う。