他人と比べるということ
2018年03月27日
良い大学を出たり良い仕事をるためには、長い競争を勝ち抜かねばならないという現実があるためか、競争意識と言わないまでも他人を意識することが体に染み付いてしまう人がたくさんいる。他人を意識するということは優越感とか劣等感も招くけど、気配りとか忖度の源でもあるので、これは他人を意識し合う人種にとって必要なものとも言える。相手が自分を意識するのと同じくらい相手を意識して初めてバランスが取れる。向こうがこっち注意してを見ているのに、こっちがドントケアでは見ている人を不愉快にさせる。
他人と比べるということは自分自身の絶対的な価値観を持たずに他人との相関関係できまる価値観を有することになる。同級生が皆部長に昇進しているのに自分だけ課長であれば、その課長という肩書きに価値はないと感じる。逆に皆が課長で自分も課長であればその課長はとても心地よいものになる。ここまで書くと芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出す。皆が課長で自分が最初に部長になればそれは誇らしさもひとしおであろう。
知り合いの人間が皆外車に乗っていたら、我が国産高級車は色あせて見える。他人の持っているものを持っていることがまず当たり前と思う。これは身につけるものであたり、あるいは子どもの行く学校であったり、もちろん所属する組織の属性であったり、生活全般に関わってくるから、いつでも他人を比較する作業を執り行うことになる。いくら金を稼いでもいくら出世しても、その世界でまた新しい比較が行われるから、言うならキリがない。多くの人にとって欲望というものに再現がないのは多分かくなる理屈である。
わたしはこのブログで他人と比較することのバカバカしさを指摘して、人との比較で自分自身を追い立てる働き蜂をさんざん揶揄している。わたしは自分で暮らしたいように暮らすし自分で必要と思うだけ稼げばそれでいい。そんなこと言いながら大金持ちではないとはいえ大多数の働き蜂よりフィジカルにけっこうな暮らし向きをしているんだから、謹んでざまあご覧ということになるんだけど、さてなぜこのわたしはこうなのか? こう考える人間になったのか? それが実はよくわからない。少なくとも努力して自分の価値観を築き上げたわけではない。
自分でそれなりに稼いで贅沢の真似事をしたりして、それでふと思った時期がある。。やはり思ったとおりだと。自分が子供の頃から漠然と考えていたことが実感に変わった。40代半ばのことである。このブログを書き出した時期でもある。馬鹿げた自慢も笑ってできるようになった。タイトル通り、ここに書いてあることはすべて大した話じゃないのである。ブログを開いて以来このタイトルは変わっていない。自分がさほどの努力もせず深刻な経験もせず、子どもの頃から抱えた原始心象風景が時を経て蘇ったとも思える。自分を育んだなにかにきっと感謝しないといけないのだろうが、過酷な子ども時代を思い起こすと、さてそれがよくわからない。
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