損得をよく考える

2018年01月13日
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人生の考え方
児童養護施設でさまざまな親子関係を目にした。自分の子どもを虐待する親の多くは自分なりに子どものことを心配して躾のつもりでやったと抗弁する。これがまったくの嘘っぱちでただの言い訳であれば話は単純だが、実はそうでもない。自分では自分の子どものことを心配しているつもりという親がとても多い。そして子どもにとって重篤な状態に至らしめたとしても、自分は子どものことは好きだった、という親が多いのである。(一部例外はいるだろうが)もちろん自分で言うことだから本心はわからないけど、少なくともわたしの親父もお袋もわたしのことは好きだったんだなと長年のつきあいだからそれはわかった。ただ結果としてわたしを大事にしたことにはならなかった。まず自分のことで頭が一杯で他人の視点で物事を見ることができない。一般には身勝手ということだが、本人は自分が自分のことだけで頭が一杯だと気づいていない。それなりに他人を心配している気持ちはある。彼らなりにはわたしのことは心配していたのである。

児童養護施設のこどもでも自分のことで頭が一杯という子どもは多い。成長の過程において親から虐待されるとか愛情が薄いと、自分のことを過度に心配して他者とのバランスが取れなくなるというケースが多いようである。他者を自分のことのように見ることができない。結果自分ではまともなつもりでも他者から見ると身勝手という行動になる。身勝手な人間というのは自分が身勝手なことにたいてい気づいていない。むしろ他人を心配する気持ちが強いほうだくらいに思っている。

静岡にシゲちゃん名義の家が空き家になっている。とても古い家で貸すこともできない。理由があって売ることも難しい。仮に売れても持ち出しになる。家の中の家財道具はそのままである。先日シゲちゃんのところに見舞いに行くと、たまたま静岡の家の話になって、それで突然言う。あの家はハルトモにあげる。自由にしていいよと。そう言われても困るんだけど、シゲちゃんにはありがとうと答えておいた。そしたらシゲちゃんはとても嬉しそうだった。

その家は親父とシゲちゃんの共同名義で買ったものであった。親父はシゲちゃんの職場への送り迎えをするだけでろくに仕事をしていなかったので自由にできる金がない。それで一計を案じたのか、わたしに言ってきた。親父の持ち分をハルトモに売りたいと。親父の持分をわたしが買ってそれを担保にわたしが銀行から1000万だか1500万だかを借りてその金をそっくり親父に家の代金として渡す。わたしはローンを背負うことになるけど、親父もシゲちゃんも死んだ後はその家を自分のものにしてもいい。つまり家が半値で買えるのだから得である。ハルトモの将来を考えてのことである、と親父は言った。

これは30年前の話。親父は死んだがシゲちゃんは生きている。静岡に帰る気もないし住む可能性のないいつ自分のものになるかわからない家を子どもに借金させて自分から買わせようとするとはと呆れるのは簡単だが、本人はそうは思っていないのである。わたしが断るとこんな良い話をなんで断るんだと本気で怒っていた。当時の親父は今のわたしくらいの年齢だ。お金が欲しくて自分なりにいろいろ知恵を絞ったんだろうと思う。それで妙案を思いついた。そして自分で思う。これは自分のためでもあるけど、ハルトモのためにもなる話だ。ただもともとお金が欲しいというところから始まっているから、自分には良い案でもわたしからの視点がまったく甘かった。ずいぶんわたしに一生懸命説明をしようとしたが、わたしはすぐに理解できたので話を聞かない。そうすると余計怒った。

結局わたしが断ると、親父とシゲちゃんはもうハルトモには家はやらないとシゲちゃんの100%名義に移した。これも身勝手な人間の特徴が出ている。自分がこれだけの案を好意で提示してやったのにそれを断るんだからと、、復讐モードに入る。自分の好意をハルトモは踏みにじった、と考える。シゲちゃんは親父が死んだ後は私とは縁を切って、というかそもそも他人なんだけど、それで弟さんとか姪っ子さんのお世話になろうと思っていたんじゃないかな。ハルトモとはこれまでって自分でも言っていた。だがそうはならなかった。結局わたしが面倒を見ている。シゲちゃんはそんな経緯とっくに忘れている。ただわたしで良かったとはたぶん思っている。

自分のことで頭が一杯=身勝手、という状態はこれは病気とまでは言わないで障害という言葉が当てはめられる。愛着障害である。わたしは自分の経験からしては愛着障害は知性で克服できると考えている。なぜなら身勝手だけだと結局自分が損をするのである。他者に通用しないような案を提示したってまとまるわけはない。仮にまとまっても一方にだけ都合が良いなら結果相手を傷つけてしまい怒り恨みを買うことになる。そしたら損だ。つまりよく考えて他者のことも自分のことと同じような視点で見ないと損なのである。

わたしはいろんな人から言われる。よくお年寄りの面倒を見て偉いですねと。親父だって死ぬ前6年毎週東京から静岡に帰って浜松への病院への送迎をした。300回も往復した。今はしげちゃんも面倒見ている。死んだしみちゃんも縁が薄かったがわたしが面倒見てみとった。だがそういうことをわたしなりにはどこか損得でやっているという自分がいる。ただ損得の切り口が他人と違うかもしれない。例えば目先にとらわれずに自分らしく楽しく生きた方が、結局人生は得であると思っている。自分の価値観や美意識に従う方がそれは結局得だと思っている。その損得の判断での行動である。その年寄りを大切にするのを見て、妻も子どももきっと気分が良いし、どんな親でもないがしろにしているのをそばで見れば良い気はしない。それは暖かい家庭とは逆の方向。復讐なんかしたら自分が損なのである。

まあわりと綺麗事なのではある。それができればいいけど日々の生活があるからね、、という人もいるんだろうけど、わたしはこんな考え方で世俗的な得もちゃんと取っている。豊かな生活ができているんだからまったく後悔はないけっこうな人生である。損得に長けているんだろうね。
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ハルトモ
Posted by ハルトモ
自由人ハルトモ。那須とさいたまを毎週往復するリゾート&リタイアライフ、そして旅、投資ネタもありのブログです。
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