好きなことだけして生きる

2017年11月12日
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人生の考え方

コンビニはゴルフでの食べ物飲み物確保でよく利用する。最近はコンビニのチキンがとても美味しくなってその分KFCに行く機会が減っている。長期的にKFCはどうなんだろうな?て思う。これはスタバとかも同じで、まあスタバのコーヒーは美味しいと一般に目されて高い値段を提示しているわけだけど、すごく美味しいわけではない。家で自分で入れて飲んでいるコーヒーだって美味しいし、最近はコンビニのコーヒーも美味しくなってきている。そうなるとむしろ空間を提供する意味合いが増すような気がするけどそれだとそれはそれで星乃コーヒーとかもある。将来どうなんだろう?意外と脆いような気もする。

一方吉野家の牛丼というのはこれは吉野家でしか食べられない。松屋もすき家もあるけど明らかに味が違う。吉野家の牛丼がこの日本からなくなるのはちと想像ができない。わたしは保有株はほぼゼロと言っているけど、ほぼと言うのは吉野家だけ持っているから。(かみさんも)なぜ吉野家の株主かと言うと、大学4年間、吉野家でアルバイトしてそのおかげで大学を卒業できたからその恩返しという意味で持っている。自分が苦しかった時代を忘れないためだ、、なんて綺麗事は言わないけど自分の原点としてのノスタルジアは感じている。20年くらい前に証券口座を開いてそれで最初に買ったのが吉野家とそして勝負のボッシュ。吉野家は毎年の配当と株主優待券20年分でとっくに元は取っている。ずっと持っているつもりだ。

吉野家で働いているとアルバイト代は銀行口座に振り込まれるのだが、確か5%くらい税金が源泉徴収される。それは学生だと限度額があるけど確定申告をすることで税金が返ってくる。毎年確定申告をして限度額を超えないように他のバイトも組み合わせる。こんな芸当をやっているアルバイトはほとんどいなかったと思うけどどういうわけかわたしはやっていた。栴檀は双葉より芳しなんて言葉もあるけど若い時からしっかりとしていたんだなと今思い出すと我ながら感心する。でもどうやってそのテクニックを身につけたかよく覚えていない。ただ税金が引かれるということでそれで疑問に思って誰かに聞いたような記憶はある。当時から当たり前のことを当たり前だとすんなり受け入れない人間だったんだろう。




ブログを毎日のように書いているんだけど、時々言われる。自慢話はみっともない。他人の自慢話を聞くのは気分が悪いとか。これはまあ読まなきゃいいだろうと言うしかない。こういう論理もある。「自慢話をする人はそれは劣等感の裏返しだからそれだけ不安を抱えている人です。自慢は大きく見せて人から認められたいという欲求から来ます。本当にすごい人は自慢話なんかしません。自慢して人に認めてもらう必要はないからです。」こういう話はそれなりの心理の専門家のお墨付きもあるから、聞いた人間はそうだと思い込んでしまう。まともな言い分に聞こえるからね。でもわたしには当てはまってない。こういう常識に凝り固まって自分の気持ちを解放することはお留守になっているって人が多いんじゃないかなて気がわたしはしている。写真は中国の奥地シーシャンバンナに行った時のもの。この川は下流に行ってメコン川になる。橋のたもとで大人子供がたくさん釣りをしていて、それで釣れるとね。そばのレストランが買ってくれるそうだ。これはけっこう値のつく魚のようで、釣った子供はどや顔である。とてもいい表情だとわたしは思うけどね。それとも自慢はみっともないか?

わたしの自慢話を聞きたくない人間というのがたくさんいることをわたしは知っているからそういう人にはわたしは自慢話はしない。普通に話していると自慢になるという傾向はあるがまあ仕方ないとして、ただその一方でわたしの自慢話を喜んで聞く人も多い。このブログだって毎日楽しみに読む人がけっこういるのである。わたし個人としては他人の自慢話を聞くのは楽しい。むしろ他人の愚痴や不平不満を聞く方がずっと気分が悪い。自慢話を嫌う人間の多くは一方で他人の愚痴を喜んで?かどうか気分を害さずに聞くらしい。この心理をどう思うか? 言わんでおこう。

あと見え透いた謙遜というのも好きでない。素直に喜んだりすりゃいいものを自分で自慢はみっともないと抑えてる。もちろんもっと上を目指す本物の謙遜もあるよ。でもそれは限られた高みを目指す人間の話でほとんどの人は自分で納得の行く結果を得られたら素直に喜べばいいんじゃないのってわたしは思う方だ。結局他人を意識しているという意味では自慢と変わらない。自分の心を常識から解放するというほうが重要なんじゃないかな。素直に好きにすればいい。




さて話が脱線したように見えるが実は脱線ではない。そのよく行くコンビニで面白い本が売られていた。こういう本はまあその通りなんだろうと思う。わたしは読まなくてもだいたいわかる。でもその一方でこれを立ち読みか買うかはどっちでもいいけど、読もうという人間はそれで読んでどうなるんだろうな?って思う。どうにもならないんじゃないかしら?こういうのは読んでわかるという話じゃないような気がしている。全く無駄だとは言わないけど、この手の本を読んで人生が変わるなら世の中もっと幸せな人間で溢れると思うから。まあ書く人にはご苦労様というところ。でもこのブログも一緒か? 好きで書いてるならそれでオッケーだ。仕事をするとかしないとかじゃなくて、自分で楽しい嬉しいというのが一番大切。その気持ちを大切にするならそれは素直に表現してもそれはおかしくないということ。なんだいつもの話か?ながなが書いた割にはいつも結論があっさり単純というのがわたしの文章の特徴だね。

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