知能と学業と
2017年08月21日
自分の知能指数を知っている人はほとんどいない。時々自分の知能指数はいくつだとか言う人間に会うことがある。学校で行われる集団簡易テストで点数が高いと、先生がそれを親に言ってしまうことがあって、それでいくつだったと知れる。だが集団の試験は簡易的なもので本当の知能検査は専門職の心理士がマンツーマンで行なって1時間とか1時間半くらいかけるもので、これは余程のことがないとやらない。余程のことと言うのは集団試験で異常に低い値が出た場合で、これは今後の進路、例えば特別支援学級への編入などもあり得るので再度精査しましょうということである。
簡易検査で知能指数が高い人間は特段問題はないので再検査ということにはまずならない。再検査には手間も費用もかかるのである。仮に正確な再検査を受けた場合には集団試験で高くてもほとんどはもっと低い値に収まる。個別試験では異常値はそんなに出ないのである。専門家ではないからよく知らないが、簡易テストで150だとか言っても、個別試験で測定すると120とかせいぜい出ても130くらいだろうと心理士から聞いたことがある。東大生の平均が120とかいう統計を見た記憶があるので、まあそれで十分優秀なんだろうと思われる。
学業成績と知能指数はある程度が相関関係があるとは広く言われている。ただいくら頭が良くても勉強をしないと成績は上がらない。当たり前である。特に日本の受験制度は処理能力よりも記憶能力を優先する傾向が強いのでたくさん頭に詰め込んだ方が成績がよくなる。たぶん処理能力の高さは数学と現代国語で差がでると思うが、面白いことに数学と現代国語の両方が得意と言う人間はあまり見かけない。何かが違うのであろう。
児童相談所に収容された子供は全員、正確な知能検査を受けることになっている。わたしが子どもの時もそうであった。児童養護施設の子どもの知能指数の平均は80ほどである。一般に平均は100だから20低い。それが現実である。だがそれ以上に問題なのは学業に対してのモチベーションの低さである。一般の家庭の子どもと比較して著しく学業へのモチベーションが低いのが児童養護施設の子どもである。学業のモチベーションはどこから来るか? 大好きな親の期待に応えたいというのは立派なモチベーションである。大好きな親が勉強しなさいと言えばきっとそれは正しいことなんだろうと素直に思える子供は自然と勉強する。大人を信頼しない子どもだと逆のことが起きる。大人の言う通りにしても良いことが起きるとは思えないのでそれで勉強が嫌いになる。もともとそんなに賢くない子どもがますます出来ない子どもなっていく。
児童養護施設である知能指数が高い子どもがいた。130である。個別試験でこの値は滅多にいない。だがこの子は幼少の時からあまりに苛烈な扱いを受けてかなりの精神的なダメージを負ってしまった。その子は気が向くと中間テストや期末試験など範囲が決まっているテストで良い点を取ることがあった。集中力がとても高いのである。だがコツコツと知識を積み上げることについては、まずそのモチベーションがない。結局全体の模擬試験ではずるずると成績を下げて、ようやく偏差値50程度の高校に滑り込んだ。ただ高校でも学業は振るわずに大学に行くことはまずないと思われる。もしもであるが、その子がいわゆる世間的に良い家庭に育てば、たぶん医者とか弁護士にもなれたとわたしは思う。そうでなくても進路はいろいろあるが、少なくともその知性に見合う学歴を得て立派な職を得ることは間違いないと思う。わたしが接していても才気煥発頭は良い子だとわかるくらいである。もう一人120の子どももいた。この子は言語能力が高くてわたしを唸らせるようなレトリックを披露する。だが学業的にはその子は今は特別支援学級への編入かどうかというレベルである。学業というものをほとんど否定している。そうなってしまったのである。その子が自分の知能指数に相当する学業成績を得る可能性は残念ながらほとんどないだろう。
わたしの知能指数の話はだいぶ前に書いている。集団テストでは各問題ごと時間が決まっていて普通はぜんぶ終わらないがわたしは軽く終えてしまって笑って周りを見渡している子だった。要は測りきれないということ。わたしは児童相談所の個別試験でも驚異的な値を出す。だがわたしは性格に大いに問題があった。そして親はわたしの学業成績アップのために協力する気もまた金を使う気もまったくなかった。ただただ要求するののみであった。それでもともと嫌いな勉強がもっと嫌いになった。だが県で有数の進学校にいたからなんとなく大学には行きたかった。現役で大学を受けるときにわたしに許されたのは一校の国立大学の受験のみであった。それがダメなら高卒で働けと言われた。それでたぶん大丈夫だろうという北の国立大学を受けたが見事落ちた。その後はいろいろあった。ここでも書いている。結局現役の時より学力は下がるばかりであった。新聞配達をしながら参考書を眺めているだけでは国立大学は受からなかった。でもなんとか入れる大学に入れたのは今にして思えば良かった。何を言おうがやはり大学を出ていないと今の自分はなかったように思う。わたしは児童養護施設の子どもには言っている。行けるならどんな大学でも行っておいたほうが良いと。
ただ不思議なものである。もしもわたしが恵まれた家庭に育って親からの厚い保護を受けていたら今ほど幸せになっていたであろうか? 結果からいうとほとんどない。この歳になって、わたしくらい結構な境遇の人間はまずもっていないのである。逆に言うなら、もしもうまく行くならそれは下から上がった方が人生おもしろい。それだけ伸び代があったということで楽しみも多い。
ところでわたしの知能指数はどこから来たのか? 親からきた分は当然あるけど、でもそれは知れている。家系的にはバカではないがそれほど優秀な家系ではない。たぶん読書だ、と思っている。普通の子どもの10倍は本を読んでいた。小学生低学年で月に20冊以上は読んでいた。そして大人の言うことは信じないで、本を信じる子になった。それくらいしか思いつかない。とにかく本を読んだ方がいいとは思うが、わたしの場合悲しさや辛さから逃れるために本を読んでいたというのが本当のところでしみいるように没入した。普通に読んでも同じ効果はないのかもしれない。とにかく言えるのは読んで良かったということだけだ。境遇については決しておすすめできない。
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