どれだけ金があれば満足か
2017年08月16日
これは考える人も多いと思う。かく言うわたしでも暇だから時々考える。例えばまるでハワイにいるかのごとき豪邸をさいたまで建てたらどうだろうとか? 敷地が恐ろしく広ければ勝手にハワイ気分というのはありえる。海はないけどプールを作ればいい。確かに金がもっとあればそういうこともあるのかなと、だがやはり思う。それはないなと。ハワイがよければハワイに行けばいいだけのことだ。偽物のハワイをさいたまに作るなど笑止だ。結論はやはりそんなに金は要らないなということでわたしのバカ思考は終わる。
たぶん多くの人間は自分がどれだけ金が欲しいのか主体的に考える機会がない。かなり裕福な家に生まれても生まれた時からそういうレベルの生活でそれが当たり前ということ。それよりはるかに多いのは、どう考えても足りていると思えないまま生きて行く人たち。その足りないという感覚はなかな満たされないので、いくらあれば自分は満ちているなんてのも真面目に考える機会もない。だからお金に振舞わされるんだと思う。お金は道具だなんて言うけど、その道具の価値が自分でわからないということだから。
逆もあるだろうね。深く考えてもいないで自分でこうだと決めているというケース。
ここからは金だけの話じゃなくて、人生全般の幸福度という話をしたいのだけど、最近はブログでもSNSでも自己発信が盛んで、自分の人生観を開陳する人も多くいる。
お金とか暮らし向きとか関わってくる。それで自分はこれで満足だと書いているけど、読んでいてこの人はどうなんだろう?なって思うケースがけっこうある。確かに人がどう言おうと関係ない、自分がどう思うかが大切だとも言う面はあるとは思うが、それでも他人から見て、そうなのかね?と首を傾げるのは考えものだと言える気がする。
なぜかと言うとだ。それはそういう見方が世の中にはあるということだから。人間の考え方とかは変わっていくものだ。それは成長でもあったり、後退でもあったり、あるいは人生を積み重ねて、気づきを得るということもある。以前は価値がないと思いんでいたものが実は大切なことだと気づくとか。人間とはそういう生き物である以上、将来考え方が変わることは大いにあるわけで、その候補が他人の見方ということになる。
つまり今は自分は自分で幸せだと思っていても、ほとんどの人がそうでもないと思うなら、その人が将来そうでなかったと思うようになる可能性はあるということだ。だからある程度自分を客観的に見つめる目というのは大切だと思う。このある程度というのが大切で、どの程度かがむしろキモである。他人の視線や評価に振り回される人間というのもまた多いのである。
とはいえだ、一生大切なことに気づかないという人間もそれはけっこういるだろう。特に恵まれて育った人間に多いという印象をわたしは持っている。周りが忖度して気づかせないってケースも上流階級ではきっとある。そうであれば知らずに一生終えた方が幸せだとそれはそれでやはりある。
某首相夫人のインタビューが公開されていて、わたしは日本のために働いているんですと、答えていた。それが自分で満足なご様子。これはわたしから見ると、いわゆる、そうのかね?という人生観だし、そもそも日本のためになってんのかい、とも思うが、でも向こうだって仮にわたしのことを見れば何か言うわけで、まあよくわからんということである。人生いろいろ、これは間違いないだろうな。
わたしの友人知人で、今のわたしに対して働いた方がいいよという、いう人間はいない。みんな羨ましいと言う。できればハルトモのようにしたいとか。そして順調な人間ほどわたしと似たようなことをするようになってきているという印象がある。わたしの考え方も将来変わるのかもしれないが、他人の視点を見ても、どうやら後悔することはなさそうだなと思っている。
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