ブログを書くということ
ハルトモのことはブログを通してしか知らない人が読者の多くであり、仮に直接面識がある人でも、わたしが自ら思うところをこれだけ演説よろしく開陳することは居酒屋でも会議室でもその機会はなかったわけで、そう考えるとこのブログからハルトモ像を構築するのは当然で、もちろん全部真に受けるわけもない。わたしの文章から、書かれていないことやあるいは誇張とかそこも含めて類推しながら読むということになるはずだ。
わたしのように長文のブログを12年も続けていると読み手はわたしの文章を大量に浴びることになる。いつだか計算したがわたしは12年で原稿用紙換算で軽く2万枚以上書いている。3万枚に近いかもしれない。本にしたら数十冊になる。一人の作家で数十冊読んでるってそれは一般の人はそんなないわけで、読者によったらだ、人生で一番たくさん読んだ文章はハルトモの文章だという馬鹿げたことになる可能性もある。
それだけの厚みがあるとハルトモ像は読者の中にそれぞれ違うにせよ出来上がっているわけで、わたしの記事を読むたびにこれはどうだろう?本当はどの程度なんだろうなんていちいち読者は類推しなくなる。むしろ読み物として扱うようになる。とわたしは想像している。
ブログを読んでいてこの人良いこと書いているなって思うことはある。だが読んでいるとだんだんおかしくなるってことは結構多いし、それ以上に更新がなくなって消えてしまうものがほとんどである。そうすると消えたということは読者から見たら存在しないということで、それでは過去に読んだものさえなんだかあやふやと言うか頼りなげと言うかあったかなかったかよくわなからない、ということになる。
最近ある人のブログを遡って読んでいる。わたしがここで書いていることとかなり被っている。まあ世の中には少数とはいえ似たような考えを持つ人がいるのは不思議ではないけど、この人はまだ書き出して半年である。良いことを書いている人なのでこれが10年とか続けばいいのだろが10年続くかどうかは10年経たないとわからない。やはりブログも世間同様、実績というか時間的な厚みは大きいような気がする。
ところでわたしはいつまでこのブログを書くんだろう? これがわからず始めている。株でも不動産でもあるいは仕事でも出口戦略が大事だなどと偉そうにのたまわりながら、ブログは一向に出口が見えないや。山形からサクランボが届いた。美味しくて食べ出すと止まらない。だが出口は明確だ。なくなれば終わりです。ハイ。
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