年齢的には人生も薄暮プレーの世代になってきたのかもしれないが、いやいや日は長い。ってわたしは思っている。
つくづく嫌になったんだそうである。良識派というか、物腰も柔らかく発言も常識的で人と接する気配りができて決して敵を作ることもない友人。数十年と勤め上げてきて59歳、余裕綽々で定年まで、とは思えないようである。
こどもが独立するまではとか、家のローンを返すまではとか、長年頑張ってきて、それでその通りに実現してさぞかし気持ちが楽になるのかと思ったら、むしろ言いようもない虚無感が押し寄せてくる。張り詰めた我慢の弓が切れたのか?
60歳を超えても再雇用があるから世間的には恵まれいるんだろうけど、本人はもうその世界にいたくないようである。今は仕事を辞めて本気でタクシーの運転手になろうかと考えている。
わたしの勘では彼は定年まではいるとは思う。思い切ったことをするほどのモチベーションはなさそうだ。だがそれで定年後どうするか、、それよりも問題なのはそれだけの長期間それこそ仕事に我が身を捧げてきて、そうとしか思えないって、それは一体なんなんだ?
その友人はわたしの人生感には眉をひそめる。わたしの仕事の話を聞いて、真似したいどころではなく間違っていると、それは今でも思っている。社会で生きて行くこと、仕事をするということはそういうことである、という確信は揺るがない。
酒食の席でおもむろにポーチからいくつかの薬を取り出した。ハルトモはなんか薬のんでないの? 俺は手放せないんだよな、、、
大きな企業を勤めあげたある先輩が、引退して仕事のことは思い出したくないと言っていたのを思い出す。その友人も近いうちに退職するんだろうが、自分の数十年をどう懐かしむのであろうか?
わたしは三つの仕事をしてきた。どれも楽しく懐かしい思い出である。虚無感どころか今でも充足感に満ちている。それで人を不愉快にしてきたと言われれば返す言葉もないけれど、逆にわたしの方が損得抜きでそれこそ人のためになることもしたりしているのも不思議な感じである。
我慢がだんだん効かなくなった友人たちは自分では意識していないのだろうけど、一緒にいても言うことが変わったなってわたしは感じる。みんな幼地味となれば言いたいことを言う。以前はきままなのはハルトモ一人であったけどみんながそうだと会話は噛み合わなくなってくる。
歯の噛み合わせというのは大切なんですよ。歯医者の言葉がふと脳裏をよぎる。
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