なんのために働くのか?

2017年06月08日
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人生の考え方
わたしのブログを読んでいると世の中は金だ、稼いだもんが勝ちであると、ハルトモはそう言っていると、そう読んでしまう方々は多い。当然である。わざとと言ってもよいくらいそういう文言で満ちあふれている。だが隠れたコンテキストは別のところにあると気づく読者もいてそっちではまた対極的な思考が文脈を形作っている。いったいどっちなんだというとそれぞれ意味はある。いわゆるインバランスでいてバランスが取れているということ。それがおもしろいと思っている。

世間では働く意味?てことではそれは社会的な使命とかやりがいとか自己実現とか、自らを高めるとか、人との出会い(人間は一人では生きていけない)とか、一応真っ当であると思われる文言文脈はそれなりに出尽くしていて、それはわたしだって随分聞いてきた。そしてそれを個々の作業として個人レベルに落とし込むことは容易にできるようになっている。いやそれどころか人様にそれを上手に押しつけよう、いや浸透させようと画策する人間までいる。

自分を肯定するというのはとても大切なことであると言う点においてはわたしはかくなる作業に非賛同というわけではないが、だがよく考えてやっているのか? それも自分に正直に? という疑問が大いにある。なぜなら後からこんははずではなかったと後悔する人間がこの世にやけに多いと思われるからである。実際わたしの友人知人にもいる。

わたしのように儲けた儲けた、金があるといいぜ、と自慢しながら、会社では昇進も評価も気にせずず思い通りに振る舞う。また経済的な利益を捨てて退職、薄給の児童養護施設で働く。自腹で施設の子どものために金を使う。こんな人間もいる。これと対比して、仕事にやりがいだ使命だとまあ格好いいことをのたまいながら、実はずっとお金の心配をしてお金のために自由に動けない連中がいる。わたしはこのコントラストが我ながら鮮やかで気に入っている。

働くという意味について、自分でよく考えてみることであるが、詰まるところは自分の美意識、平易に言えば己の納得とわたしはここで何度か書いている。世の中の役に立ちたいと思うならそれも良いが、世の中の役に立ちたいと思った瞬間にそれは個人の内的な意味で、まさしく自分の望みである。そういう姿を好ましいと求める自分の欲求なのである。そこを違えては行けない。

ましてや金に換算できる豊かな生活を求める自分はどこにもいないのか? この問いに対してそうですと答えられる人間はまずマザーテレサとか限られた人だけである。ただでは働かないだろう。だから金のために働くのはわたしはそう言って別に良いと思うし、仕事に貴賤はないと言うとおりどんな仕事だってやりがいもあるものだし、というか自ら見つけるもので、どの仕事でなきゃだめだなとか上だ下だなんてことはないし言えばそれは差別だ。その上で金のために何をするのか? 例えば人間的に尊敬できない人間にもおべっかを言うのはそれは使命じゃないだろうしやりがいにもほど遠いし、実は働いていればそういうことはたくさんあるが、それが仕事全体でなんとなく丸めて、きれいごとで終わらせるなってわたしは言っているのである。そこを曖昧にしているから後から後悔する羽目になる。

わたしみたいな生き方をして俗世間的に成功するのはかなり難しいと思う。才覚がなきゃ無理だ。サラリーマンではたぶんあり得ないタイプである。この生き方の良い点は、どういう結果になっても自分が好ましいとか格好いいとかそう思える納得を積み上げているので、後から後悔することがないということである。案外予想したほど悪いことは起きない。ということで今の自分がいるんだけど、人と逆に向かって行っているようで実はほかの人間よりずっと好ましい結果が得られている。これもコントラストであるから実におもしろい。

この文章はまだ途中だね。あげるけど。


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