働きづくめの人と遊んでくらせる人と

2017年06月05日
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マネーと生活
わたしが40代後半の頃は同世代でわたしくらい生活に余裕のある人間はつきあいの中ではいなかった。友達つきあいの中でもたまに会えばみんなでハルトモはいいなあであった。ところがこの10年くらいの間にぼちぼちとわたしのゆとりに追いついてくる人間が現れる。定年前に退職して悠々自適とか、商売で成功して引退が視野に入ってくるとか、そこまで行かなくても退職後はさほどあくせくしなくても暮らせるというメドが立っているとか、こうなると気持ちにだいぶ余裕が出てくる。それなりの振る舞いだし話しも趣味とか旅行とか羽振りは自然と良いということになる。

ということで友達づきあいの中でかなり差が目立つようになる。格差が拡大というかよりわかりやすい形で見えるようになってきたと言ったほうがいいかもしれない。今まではなんだかんだでそれなりに苦労してみんな忙しく働いていた。それが一方は時間と金に余裕があり遊んでいるのに一方は働きづくめ遊ぶ時間も金もない、むしろ歳をとって収入は下がって生活は一向に楽にならない。これでは一緒に酒を飲んで話が合うわけがない。豊かな連中の普通の会話がだんだん癇に障るようになるのも不思議ではない。

古い友達の集まりにも出て来なくなる人間もやはり大変な人間が多い。こうなると今後ゆとりが出てきてももう集まりに戻ってこないよう気もする。疎遠になると戻りづらいものであるし、それにいつ余裕がでるか? あまり良い見通しは聞かない。この年になって余裕がないということはこれは一生余裕がない可能性が高い。経済的にはもう逆転はない世代なのである。こうなると残った人間の集まりもいつまで続くかという気もする。なんとなく気まずくなってくる。余裕のある人間は余裕のない人間を気遣わねばならない雰囲気も出てくる。

でもである。子どもの頃から貧乏をよく知るわたしに言わせると、この世は豊かな人間が貧乏人にそんな気遣いをするほどのデリカシーはないのである。貧乏で恥ずかしいとか肩身が狭いとかいう経験をわたしは子どもの頃からたくさん経験している。このブログでも以前書いているが今は笑い話であるが、貧乏だからと気遣いされた記憶は逆にない。普通の人の普通の会話が我が身に刺さる。でも子供でもそんなので友達を捨てるようなバカはしない。悪気はないのは子供だってわかっている。

それが子どもの頃にはそんな気遣いに無頓着であったゆとりのある家の子が、自分の責任で数十年生きてきて、それで自分がゆとりがない、あいつはゆとりがあるのがつきあっていておもしろくないから避ける、数十年の経験を積んだいわゆる立派な大人が、となるのは、なんだかなあって気がわたしはする。

サラリーマンの頼りの年金はどうなるか不透明。一億総活躍社会とは聞こえはいいが保障は薄いから死ぬま働けという意味である。その通り年寄りは多数の働き続けねば暮らせない人間と少数の遊んでくらせる人間にはっきりとわかれるだろう。過去にはみんな年金で同級生がそれなりに一緒に遊んでくらせた時代はもはやノスタルジーである。こんなはずではなかったとほぞを噛んでもどうにもならないのであろう。それにしても平均寿命は伸びるばかりだから、これから長い長い老後を迎える我が同世代、楽しい人間は楽しいが、楽しくないならそれはますます長いわな。
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