人生で要らない物

2017年04月08日
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人生の考え方


最近芸能人の訃報を聞くと、ああ、この人まだ生きていたのかって思うことも多い。逆に生きててももう死んだのかなって思うこともあって、けっこういい年の芸能人で存命かどうか聞かれたら半分くらいしか当たらないかもしれない。
まかせてちょーだい、もっともっとなんてコマーシャルがあるが財津一郎は生きているのか? わたしはどういうわけだかもう亡くなっていると思いこんでいたが、どうやらご存命の様子。よくわからないね。

60歳くらいになると、もう自分で自分は老人だとか老い先が短いとか、さてこれからの老後とか、そういう物言いが増えてくる人が多いけど、わたしは個人的にはそういう気分はまったくなくてむしろ青春という気がする。若いときの方が袋小路に閉じこめられたようでパワーがまるで精神の鬱血のように凝り固まっていた気がする。今のわたしはそれと逆に弾けている。なんの閉塞感も鬱積もない。草原を馬で疾走する気分で人生を生きている。挙げ句に遊びの落馬じゃ世話がないけどそれも大事に至らなきゃご愛嬌である。

あくまでも生きていく上での小銭ではあるが、金があるから自由なのか、自由に生きたからこそ金がついてきたのか? これはどっちが先と単純には割り切れない。若いときからのひとつひとつの自分の取った行動を振り返ってみても、ああこの行動は損得抜きであったなと思えるものもあるし、金があるからそうできたなって思うものもある。人間の行動は終始一貫とは行かずかなり刹那的で、それでもその人間の本質に寄る大きなベクトルはあって、まるで小さな上下動を繰り返しながら大きなトレンドをなす株価のように人生を織りなす。

さらにその人間に対する人の評判というのははなはだ当てにならず、それでさらに事態は混迷する。くだらないと見えた人間が時に美談を残したり、逆に素晴らしい人格者と見なされた人物が思わぬ馬脚を現したり、実はつまらぬと見えて一角の人物であったのか? はたまたただのまぐれか? その逆か? なんだかよくわからくなってくる。だからこそ自分で納得できる生き方をすることが一番間違いないとわたしが長くこのブログで言ってきている。

誰が死んでいるのか生きているのか? これがわからないと言っても間違いなのは遅かれ早かれ誰であろうとみな必ず死ぬということである。その時に持っていけるものは限られている。思い出とか。わたしがゴメン被りたいのは後悔である。そんなものは死ぬ時だろうが生きている間だろうが要らない。ただ後悔はいろんな御利益におまけのようにひっそりとついてきて最初は見えない。それがある日現れてそして次第に大きくなっていく。後悔というのは成長する怖さがある、だからこそ小さいうちに叩く、つまり日々の小さな自分の納得を丁寧にかつ自然体で積み上げることが大切であろう。つまらないところで意地を張っているようによく言われるわたしだがそこがわたしなりのこだわりと言うわけである。
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