盛られた人生

2017年03月25日
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日々の雑感ーリタイアライフ
総理大臣の奥さんはいろいろ活発な人らしい。どんな人か知らないから特段印象もないけどただ籠池氏よりは信頼にたるなどと単純に思うほどわたしはナイーブではない。この奥さんは自分の旦那が安倍晋三だからつまり国会議員でいまや日本の首相のだからあちこちから声もかかるしいろんな名誉職にもつける。自分一人だったら誰も相手にするような存在でもない。それがちゃんとわかっていないようには見える。ただのおばさんだろう。まあファーストレディを忠実に演じるのであれば異論はないが。

よく話を盛るという言い方を今の子どもがする。まさしく盛られた人生である。生まれた時から下駄を履いている人生。ただ自分としてはずっと盛られていればそれはそこが出発点だから盛られたとも思わないのかもしれない。生きていけばそれなりに苦労はあるし自分で切り開いたという気分にもなる。

旦那の安部首相だってそれはそういう家庭に生まれてそう育てられて、そして地盤から金から人脈からみんな手はずが整えられて、まるで歌舞伎役者の家の子が歌舞伎役者になるように政治家になる。まさしく盛られた人生である。これは別に楽したと言っているのではない。ただ下駄を履いているというだけのことでそこからそれは自分でやることは多いし下駄が高ければ高見に行くのも可能だしが下駄があって不安定でひっくり返る人間もいる。

世の中の人間の多くはそれなりに下駄を履いていると思う。親から大切に育てられても下駄、なにか引き継いだらその分が下駄だ。では自分はどれだけの下駄を履いているのか? それはいったいどんな下駄なのか?それを自分で認識してそしてその下駄とどう接するのか? そこにその人の人生観というのは出てくると思う。

親が政治家だから自分もその境遇を利用して政治家になり国政を担ってみたいと思うのは別におかしいとわたしは思わない。一方自分の配偶者が有力者であることを利用してなにかしようというのは、わたしは好みに合わない。むしろみっともないと思う。いろんな下駄がありいろんなつきあい方があるということだ。

個人的に思うのは、もしうまく生きて自分がなりたいようになれるのなら、下駄はなるべく低いほうがおもしろいね。草履裸足でもいいくらい。なんでも好きにできる。しがらみもない。後の心配も責務もない。そしてたくさんの納得と満足感を得ることができる。低いところから始めた方が伸びシロが大きいのだからそれは楽しみがいがある。もっとも低いところからでるとほとんどは低いまま終わるからやはり下駄は高い方がよいと思うかもしれない。

せっかく高い下駄があるのにそれを利用するのを潔しとしない人たちもけっこういる。ほとんどは名もなく終わるが、それは知られていないだけで満足感のある人生とは別の話だ。あえて盛られた部分を避ける、それも良い選択だと思う。
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