己を決める
2017年03月24日
ヤフオクでアップルの純正キーボードを売った。6年前に買ったものだ。買ったときの金額がたぶん6500円くらい。それほどは使っていないがその後アップルの純正キーボードは新型が出ていてわたしはそれも買ったので旧型はほとんど使っていなかった。それを3000円で売った。1000円分のポイントがキャンペーンで着くので4000円、送料はわたしが負担して1000円。結局3000円で売ったわけだ。3000円のためにいろいろやりとりをして面倒であるが遊びだからたまには良い。
おまけにアップルストアで買った専用のケース兼スタンドをつけてあげた。もう持っていても仕方ない。そしたら落札者から連絡が来て、iPadで設定しました。大満足です。ありがとうございます、とのこと。あげて良かったなと思う一方で、わたしはMacBookairからiPadからiPad miniからみんな持っていてそれにあわせるキーボードは10枚以上持っている。それでもっといいものはないかといろいろと検討している。まだ大満足とは思っていない。でもやっていることは落札者とほとんど同じである。きっと落札者は家でもあるいは外にも持ち出して気持ちよくテキストを打っておられることだろう。
サチルという言葉はエンジニアならおわかりだと思うが英語のサチュレーションの略である。飽和状態に達することで、グラフで言うならX軸に対してY軸の値が最初はどんどん上がっていくがしだいに上がり方が鈍くなりもうこれ以上は上がらなくなるとそれをさちったと言う。物欲で言うなら物を持っていないときには何か買った時の満足感は高いが、どんどん買い増して物が増えていけば行くほどそこから得らる満足感の上昇度は低くなる。そして何を買っても嬉しくない。つまり買いたいと思わないという状態に達するとそれは「わたしの物欲はさちった」と言うわけだ。
自分なりの物欲度曲線を意識してみるのはおもしろい精神的作業かもしれない。ただ注意しないといけないのは変化点というのがあって、それを決するのは例えば自分の経済力だったりあるいは見栄だったりライバル心だったり。いちどさちったのにまたぐいぐいと上昇を始めるというグラフになる。課長の時はマークXで満足していたのに部長になるとレクサスが欲しくなる。同僚があるいは同級生がBMWを買ったら自分はベンツが欲しくなるという案配である。株を始める前は株の儲けで住宅ローンが返せたらどんなにいいだろうとそれで十分だと思っても、いざ持ってみるとまたもっと欲しくなる。これも同じである。何段ロケットかのように上昇していくと物欲はきりがなくなってくる。
こうやって外部因子で自分の満足度が変化するのはそれは普通と言えるんだろうけどわたしについて言うと12年ほど前にこのブログを始めた時にもう自分で言っているのね。これだけ儲けたら止めるだろうって。そしてだいたいそのその通りになっている。わたしには物欲の多段ロケットはついてない。ただわたしの場合には最初からその満足するレベルは人から失笑を買うほど高かった。貧乏な子どもの頃から今くらいの生活ができるようになってやろうと思っていた。
若い頃はほら吹きとよく言われた。ハルトモは言うことは立派だができるものならやってみろとか。今の私をほら吹きと言う人はいない。ただ実現したからと言って、そこでさらにもっともっとと思わないのがこれもわたしがユニークである点だと自分で思う。
人生をひとつの大きな勝負と見極めれば(小さな勝負の連続だが)、これが勝負師というものである。最初から自分というものを持っていて、颯爽と勝負をして、自分の儲けたいだけ儲けたら、アバよと悠然と引き上げる。なんとしてもやってやるぞという執念は尋常ではないが、達成すれば虚静恬淡。調子に乗ったりもしないしさらにもっとと深追いもしない。ゼロからスタートしたことを思えばすでに十分である。
よく言う言葉に、己を知るとか、分をわきまえるとか、がある。これはよく考えると己を知るのではなく、己を決めるということではないか? 自分がどれほどの物かそんなの若造にはわかりっこない。いや年を食ってもわからない。だからこそ自分でこうだと決めてそれを実現してそれで満足、格好いいね。いいじゃない、我ながら。
おまけにアップルストアで買った専用のケース兼スタンドをつけてあげた。もう持っていても仕方ない。そしたら落札者から連絡が来て、iPadで設定しました。大満足です。ありがとうございます、とのこと。あげて良かったなと思う一方で、わたしはMacBookairからiPadからiPad miniからみんな持っていてそれにあわせるキーボードは10枚以上持っている。それでもっといいものはないかといろいろと検討している。まだ大満足とは思っていない。でもやっていることは落札者とほとんど同じである。きっと落札者は家でもあるいは外にも持ち出して気持ちよくテキストを打っておられることだろう。
サチルという言葉はエンジニアならおわかりだと思うが英語のサチュレーションの略である。飽和状態に達することで、グラフで言うならX軸に対してY軸の値が最初はどんどん上がっていくがしだいに上がり方が鈍くなりもうこれ以上は上がらなくなるとそれをさちったと言う。物欲で言うなら物を持っていないときには何か買った時の満足感は高いが、どんどん買い増して物が増えていけば行くほどそこから得らる満足感の上昇度は低くなる。そして何を買っても嬉しくない。つまり買いたいと思わないという状態に達するとそれは「わたしの物欲はさちった」と言うわけだ。
自分なりの物欲度曲線を意識してみるのはおもしろい精神的作業かもしれない。ただ注意しないといけないのは変化点というのがあって、それを決するのは例えば自分の経済力だったりあるいは見栄だったりライバル心だったり。いちどさちったのにまたぐいぐいと上昇を始めるというグラフになる。課長の時はマークXで満足していたのに部長になるとレクサスが欲しくなる。同僚があるいは同級生がBMWを買ったら自分はベンツが欲しくなるという案配である。株を始める前は株の儲けで住宅ローンが返せたらどんなにいいだろうとそれで十分だと思っても、いざ持ってみるとまたもっと欲しくなる。これも同じである。何段ロケットかのように上昇していくと物欲はきりがなくなってくる。
こうやって外部因子で自分の満足度が変化するのはそれは普通と言えるんだろうけどわたしについて言うと12年ほど前にこのブログを始めた時にもう自分で言っているのね。これだけ儲けたら止めるだろうって。そしてだいたいそのその通りになっている。わたしには物欲の多段ロケットはついてない。ただわたしの場合には最初からその満足するレベルは人から失笑を買うほど高かった。貧乏な子どもの頃から今くらいの生活ができるようになってやろうと思っていた。
若い頃はほら吹きとよく言われた。ハルトモは言うことは立派だができるものならやってみろとか。今の私をほら吹きと言う人はいない。ただ実現したからと言って、そこでさらにもっともっとと思わないのがこれもわたしがユニークである点だと自分で思う。
人生をひとつの大きな勝負と見極めれば(小さな勝負の連続だが)、これが勝負師というものである。最初から自分というものを持っていて、颯爽と勝負をして、自分の儲けたいだけ儲けたら、アバよと悠然と引き上げる。なんとしてもやってやるぞという執念は尋常ではないが、達成すれば虚静恬淡。調子に乗ったりもしないしさらにもっとと深追いもしない。ゼロからスタートしたことを思えばすでに十分である。
よく言う言葉に、己を知るとか、分をわきまえるとか、がある。これはよく考えると己を知るのではなく、己を決めるということではないか? 自分がどれほどの物かそんなの若造にはわかりっこない。いや年を食ってもわからない。だからこそ自分でこうだと決めてそれを実現してそれで満足、格好いいね。いいじゃない、我ながら。
- 関連記事
-
-
「偏西風は吹いても神風は吹かない」精神論で日本は復活しない 2022/09/04
-
人生というのは生きているということだけが真実 2020/12/24
-
大卒と高卒 2016/09/27
-
あの時あそこで 2018/11/30
-
知能と学業と 2017/08/21
-