自分らしく生きる
2017年01月17日
初乗りに乗馬クラブに行ったのだが、前にいた馬が一頭いなくなって新しい馬がいる。あの馬はどうしたの?と聞くと仕入先の牧場に返して新しいのをもらってきたとクラブのオーナーが言う。古い馬はどうなるかと言うとよほど運がよくない限り肉屋に並ぶんだと。まあ可愛そうだがそうだなとは思う。気が荒くて人をかむしすっかりひねくれている。後ろ足で蹴るので危ない。わたしくらいでも乗りたくないくらいだから初心者にはまず無理だ。あの馬は競走馬あがりだったはずで競走馬上がりは乗馬クラブでうまいこといかないケースが多いそうだ。気がおとなしく言うことを聞く馬は乗馬クラブで余生をまっとうすることができるが、扱いづらいとなれば過酷な運命が待ち受けている。
競馬で颯爽と走るサラブレッドは格好いいけど、生き残るのはごくわずかでそうやって多くは最後肉屋に並ぶ。まあ牛とか豚よりそれでもチャンスはあるということかね? でもねその馬だって別に自分で競馬をしたくてやったわけではない。性格だって最初からひねくれていたわけではない。それがいろいろあってたぶん馬なりに嫌な思いもきっとしたんだろう。それで今の状態がある。どこかで何かが狂ってしまった。
馬のこと考えていたら児童養護施設の子供と思いが重なる。児童養護施設にも扱い難いこどもというのはたくさんいる。施設ではその子を抑えるためにいろんな制限をかけていく。こどもにとってはより苦痛だが、それでも手に負えないとなると、さらに厳しい施設へと送られる。そこは学校も併設で施設から外出も許されない。そのまた上とかあってだんだん厳しくなっていく。さすがに最後は人間だから馬のようにはならないが、だが従順するようになるまで管理は厳しくなり彼らとしては追いつめられていく気持ちだろう。
施設のこどもたちはそのあたりを知っているから、あまり逆らわずにおとなしくしようと打算するこどもも多い。だがそういう人間は隠れて悪いことをしたり弱い物をいじめをしたり、振る舞いはおとなしくなっても心の闇は晴れないどころかむしろ大きくなっていくのかもしれない。どの子も産まれた時からひ ねくれていたり荒くれ者であったわけではない。やはりいろんなことがあり嫌な思いもたくさんして、その子の責任とは言えない。でもそのつけは全部こどもに行くのである。
わたし個人としては人間でよかったなどと馬鹿げていると思われるかもしれないがまじめにそう思う。でなきゃ死んでた。映画カッコーの巣の上で、ジャックニコルソンの出世作だが、あの映画を初めて見たときの衝撃は今も忘れない。命より大切なものは自分が自分であり続けることというのが映画のメッセージだが、死んではたまらない。
人間社会に置き換えると死ぬのは極端で俗世間的な成功からほど遠くなりろくな目にあわないということだろう。人はそれが怖くて自分らしく振る舞うのを躊躇してそしてしまいには本当の自分さえわからなくなり、羊のように従順な自分を肯定するかもしれない。心の闇はないようで実は児童養護施設のこどもの闇と大きさが違うだけなのかもしれない。
わたしについて言えば自分が今このような形で人生を生きているのはまさに僥倖と思う。感謝するというより正直感心する。これだけ自分らしく生きれる人は滅多にいないだろう。そしてさらに思う。自分らしさと言える自分がわたしの中で育ったことはそれ以上に幸運だったと。自分があるからこそそれにこだわれる。
施設のこどもなど自分というものがすっかりわからなくなってしまっているし、一見普通の家庭に育ってもこだわるほどの自分というものを持たない人もきっと多い。
わたしは、自分がいつどこから来たのか?あるいは作られたのか? それはよくわからない。だが一度できれば消えることはどうやらないみたいだ。だんだんに成長してすでに身体と同一化している実感はある。あくまでもわたしの話だけど。
競馬で颯爽と走るサラブレッドは格好いいけど、生き残るのはごくわずかでそうやって多くは最後肉屋に並ぶ。まあ牛とか豚よりそれでもチャンスはあるということかね? でもねその馬だって別に自分で競馬をしたくてやったわけではない。性格だって最初からひねくれていたわけではない。それがいろいろあってたぶん馬なりに嫌な思いもきっとしたんだろう。それで今の状態がある。どこかで何かが狂ってしまった。
馬のこと考えていたら児童養護施設の子供と思いが重なる。児童養護施設にも扱い難いこどもというのはたくさんいる。施設ではその子を抑えるためにいろんな制限をかけていく。こどもにとってはより苦痛だが、それでも手に負えないとなると、さらに厳しい施設へと送られる。そこは学校も併設で施設から外出も許されない。そのまた上とかあってだんだん厳しくなっていく。さすがに最後は人間だから馬のようにはならないが、だが従順するようになるまで管理は厳しくなり彼らとしては追いつめられていく気持ちだろう。
施設のこどもたちはそのあたりを知っているから、あまり逆らわずにおとなしくしようと打算するこどもも多い。だがそういう人間は隠れて悪いことをしたり弱い物をいじめをしたり、振る舞いはおとなしくなっても心の闇は晴れないどころかむしろ大きくなっていくのかもしれない。どの子も産まれた時からひ ねくれていたり荒くれ者であったわけではない。やはりいろんなことがあり嫌な思いもたくさんして、その子の責任とは言えない。でもそのつけは全部こどもに行くのである。
わたし個人としては人間でよかったなどと馬鹿げていると思われるかもしれないがまじめにそう思う。でなきゃ死んでた。映画カッコーの巣の上で、ジャックニコルソンの出世作だが、あの映画を初めて見たときの衝撃は今も忘れない。命より大切なものは自分が自分であり続けることというのが映画のメッセージだが、死んではたまらない。
人間社会に置き換えると死ぬのは極端で俗世間的な成功からほど遠くなりろくな目にあわないということだろう。人はそれが怖くて自分らしく振る舞うのを躊躇してそしてしまいには本当の自分さえわからなくなり、羊のように従順な自分を肯定するかもしれない。心の闇はないようで実は児童養護施設のこどもの闇と大きさが違うだけなのかもしれない。
わたしについて言えば自分が今このような形で人生を生きているのはまさに僥倖と思う。感謝するというより正直感心する。これだけ自分らしく生きれる人は滅多にいないだろう。そしてさらに思う。自分らしさと言える自分がわたしの中で育ったことはそれ以上に幸運だったと。自分があるからこそそれにこだわれる。
施設のこどもなど自分というものがすっかりわからなくなってしまっているし、一見普通の家庭に育ってもこだわるほどの自分というものを持たない人もきっと多い。
わたしは、自分がいつどこから来たのか?あるいは作られたのか? それはよくわからない。だが一度できれば消えることはどうやらないみたいだ。だんだんに成長してすでに身体と同一化している実感はある。あくまでもわたしの話だけど。
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