孤立と孤独
2016年12月06日
来年の正月は家族で姉夫婦の家に訪問することになった。であるから来客もなく特におせちは頼まなくてもいいのだが、やはりなんか頼もうと、それも大晦日にもう食べてしまうのだけど、地元の台湾料理店のおせちを初めて頼んでみた。先日試しに食べに行ったらとてもおいしかった。店主が丁寧に作っている。いつもは地元のブラッセリーだけど、洋食から中華に鞍替えだ。
我が家のマロは元気だ。今年もマロは一度も怒らずに一年を終えそうだ。生まれてから一度も怒ったことがない。尻尾を掴むと、抵抗せずじっと座って困ったような顔をする。それから無理に抱っこすると、にゃーと鳴いておろせと言う。それくらいだ。
わたしも仕事を辞めてからまったく怒らなくなった。仕事でも心から怒るというのはないのだけど、それでも組織の納得のいかないやり方と戦ったりしたわけで、それなりに激しさもあったが、それもなくなった。大きな声を出すのは、ゴルフで曲げてフォアーと言う時くらい。
人に向かってあれこれと言うこともない。これは会社でもそうだったのであるが、あれこれ言うよりあれこれ人に言う方がストレスである。言われる方は聞かなきゃいいけど言う方は聞かさないといけない立場であるから面倒であった。嫌だったがまあやる以上はやると割り切ってはいたが、もともとあまり人に言いたくも言われたくもない人間である。かと言って別に孤独を好むわけでもない。 孤独は嫌だが孤立は厭わない。そんな人間だ。
いろんな人を見ているけど、人にあれこれ言うのが好きな人ってけっこういるね。で逆にあれこれ言われて嬉しいって人はまずいない。言われたくないけど言いたいって人間の方が世の中多いってことかな?
孤独と孤立だけど、世の中の多くの人はこのふたつの言葉の違いをあまり明確に使っていない気がする。というか孤立すると孤独になると思っているかもしれない。孤立はやり方とか考え方が異なるだけで、それは尊重されべきで孤独になることもないのだが、人と違う時点でもう不安になってしまうのかな?
だいたい自分で一から考えるのが基本で人と違うと言うのは結果であるから、結果が人と違うから考えを変えるのは本末転倒ってことだけど。人間はそのあたりうまいことアジャストして無意識のうちに人と同じ結論に寄って孤立しないように持っていくので、自分では自分で考えた気になっている。こうなるともう一生治らないだろうね、なんてそう思うけど、もちろんそんなことわたしに言われたくもないわな。大きなお世話だ。
サラリーマン時代につきあった日本の大企業のK部長、彼が言っていたのを思い出す。ハルトモは好きなことを言って好きなことをやって、それで確かにうまいこと行って金もあるけど、羨ましくないって。自分がそうなりたいなんて全く思わないって。
まあ生き物が違うってことなんだろうね。逆にわたしから見ればよくそんな大人しくやってられるな、と思うのだから。
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